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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
235/805

  始まり9

「位置情報では、ヨシノはナイツブリッジのタワーホテルにいるはずなんだ」

 電話を切ったアーネストは、眉をひそめ唇を引き結ぶ。


「さすがに一流ホテルだ。簡単には顧客情報を漏らしてはくれないよ」

「ヨシノの話では、そちらにアレン・フェイラーとサウード皇太子殿下が泊まっておられると」

「そのどちらかの所だろうね」


 ウィリアムは時計にちらりと目をやった。もう十時を回って、とっぷりと日も落ちている。吉野にまた逃げられたと気がついてから、すでに二時間が経過していた。彼の位置情報は動かないままで、帰ってくる気配はさらさらないようだ。


「迎えに行ってきます」

 小さくため息をつくウィリアムに、「無駄足かもしれないよ」とアーネストは皮肉げに唇を歪めて嗤った。

「スマートフォンの電源も切ってある。おそらく、あの時計は囮だよ」

「かまいません。心当たりはないか、ご学友のお二人に尋ねてきます」


「マーカス、」

 居間から退出するウィリアムを鋭い声で呼び止めると、アーネストは内ポケットからサングラスを取り出し手渡した。

「アレンに会うつもりなら、それを忘れるなよ。あまりあの子に、フェイラーに首を突っ込ませないように」

 ウィリアムは、黙ったままライムグリーンの瞳を伏せて頷き、踵を返すと足早に部屋を後にした。






 マーシュコートでは、常夜灯のほのかな灯りの照らす薄暗い廊下を押し黙ったままパタパタと歩くサラの後ろを、吉野もまた口を噤み足音を忍ばせて続いていた。


 長い廊下の突き当りでやっと立ち止まり、サラは、やはり何も言わないまま目の前のドアを指差した。


「ありがとう」


 ノックしようとした拳を寸前で止め、吉野は、ドアの内側から染み出るような水音に眉をよせ、そのままドアノブを回し開けた。

 真っ暗な室内に、ザーザーと、シャワーらしい水音が響いている。


「飛鳥、」


 音のする方に進み、手探りに壁にあるはずのスイッチを探して灯りを点ける。

 バスタブの縁から内側に身を乗り出すようにして、飛鳥が倒れている。出しっぱなしのシャワーは、叩きつけるように服を着たままの上半身を濡らしていた。


「飛鳥!」


 駆けよってシャワーを止め抱き起こし、氷のように冷えきった頬を、パシッ、パシッと叩いた。


「飛鳥!」

 やっと目を開けた飛鳥は、吉野に気づくとかすかに微笑んで、「吉野、良かった。無事だったんだね」と呟くと、また安心したように瞼を閉じた。



「ぼさっと見ていないでタオルを取れよ」


 バスルームの入り口で立ち尽くしているヘンリーを睨みつけ、飛鳥を抱えたまま片手を伸ばした吉野は、タオルを受け取るともう彼には見向きもせずに、飛鳥の髪を丁寧に拭いている。


「着替えはどこ?」


 振り返りもせずに尋ねると立ち上がり、飛鳥を抱え上げようと腕に力を入れる。


「僕がする。君じゃ無理だ」


 ヘンリーが横から腕を伸ばし、バスタオルでくるんで軽々と飛鳥を抱き上げた。すでに灯りに照らされている室内のベッドに運び、そっとその身体を横たえる。



「医者を呼ぶよ」


 飛鳥の濡れた衣服を着替えさせる吉野に背を向けて声を掛けたヘンリーに、吉野はぶっきらぼうに答えた。

「必要ない。お盆が過ぎれば元に戻る」


 

「それに飛鳥は、目が覚めたら覚えてないから」

 ベッドから立ち上がり、吉野はヘンリーの傍らの窓際にあるソファーにくたびれきった様子でどさりと腰を下ろした。


「夢遊病みたいなものなんだ。夏の間だけ。自分を傷つけないように見張っていなきゃ、何しでかすか判らない。飛鳥、ここに来てからまともに食ってないだろ?」

「――なぜ?」


 心配そうに眉根をよせるヘンリーに、吉野は物憂げに首を横に振るだけだ。


「よく判らないよ。夏に色々あったからかな。飛鳥、訊く度に言うことが違うんだ。どれが本当なんだか……。でも、寝ている時、泣きながら謝っているんだよ」

「誰に?」


 吉野は、また首を横に振った。


「いつ頃からなの?」


 一言一言、喉から絞りだすように尋ね、ヘンリーは吉野の視線の先に横たわる飛鳥を、憂いを帯びた瞳で凝視し、歯噛みする。


「一昨年かな。祖父ちゃんが死んでから」


「吉野」


 か細い声で、飛鳥が呼んだ。


「何?」

 吉野はガバッと身を起こして、ベッドに駆けよった。

「暑い。窓を開けて」

 あんなに冷えきっていたのに、飛鳥はもう、ぐっしょりと汗をかいている。

「暑いんだ。それに、蝉がうるさい」

「今は夜だよ。蝉は鳴かない」

 吉野は手近な窓を大きく開け放って振り返る。


「それに、ここには蝉はいない。幻だよ。自分で幻を作り出しているだけだよ」

「こんなにうるさく鳴いているのに?」


 飛鳥は頭の位置をずらして、窓辺の吉野に虚ろな目を向けた。


「蝉は飛鳥を責めたりしない。飛鳥が自分を責めているだけだ」

 ベッドの脇に膝をつくと、吉野は優しく掌で飛鳥の汗を拭う。

「大丈夫だよ」

 白いシーツの上に自分の頭をのせて飛鳥に視線を合わすと、吉野はにかっと笑った。


「心配いらない。俺、ここにいるから。眠って、飛鳥」


 そっと手を伸ばして、飛鳥の目を掌で覆った。


「ほら、もう何も見えないし、何も聞こえないだろ?」

 飛鳥はわずかに頷いたようにみえた。

「おやすみ、飛鳥」


 静かな寝息が規則正しく聞こえてくるまで、吉野は身じろぎもしなかった。ヘンリーは言葉をかけることすらできないままに、ただ、息を殺してそんな二人を見守っていた。







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