始まり7
「失礼します、ラザフォード卿。『アンダーソン』は既製服のスーツを扱っていましたか?」
怪訝そうに首を捻りながら居間に戻ってきたウィリアムに、アーネストは膝の上の本に視線を落としたまま、「『アンダーソン』? サヴィル・ロウの?」とメイフェアにある、名門紳士服店が軒を連ねる通りの名を挙げて尋ね返す。
「おそらくは」
「カジュアルウェアなら最近別店舗で出したようだよ。だけどスーツは聞いたことないな。『アンダーソン』だろ? あり得ないだろ、既製服のスーツなんて」
アーネストは淡々と答えていたが、不思議そうに、ふと面を上げた。
「で、『アンダーソン』がどうしたって?」
「ヨシノの着て帰った服が『アンダーソン』だったので。彼は吊るしの安物だと、」
「吊るし! 『アンダーソン』で!」
アーネストは声を立てて笑い出す。ウィリアムは困惑してその場に立ち尽くしたままだ。
「借りものじゃないの? あの店は安いものでも、一着五千ポンドはするよ」
のけ反らすように顔を上げ、ウィリアムに視線を向ける。その瞳はまだまだ興味津々に笑いを含んでいた。
「あの子、また何かやらかしたね。いいよ、あの店にはツテがあるから、僕が確認する」
アーネストは、クスクスと笑いながらパタンと本を閉じて立ち上がった。
「ヨシノの『アンダーソン』を見てくるよ」
「ねぇ、ヘンリー、あれは本当にアスカなの?」
テラスから身を乗り出すようにしてじっと見下ろしていたサラは、横に並んだヘンリーの袖を引っ張った。ガーデンルームの一画にある薔薇園でベンチにぼんやりと腰かけている飛鳥を、ヘンリーも振り返って見やる。
「どういう意味?」
ヘンリーは、飛鳥に目を据えたまま訊き返した。
「私の知っているアスカじゃないみたい。オンライン上のアスカはもっと違っていた。もっと、」
「活発だった?」
「数学的だったの。整然と整理された数式のようで無駄がなかった」
「僕は逆にそんな彼を知らないな。僕の前にいる彼は、いつだって混沌と不可解でできている、難攻不落な未解決問題だよ。数学的なのはヨシノの方だね。どんなに突飛に見えても、彼の行動は理路整然と証明できる」
ヘンリーは柔らかく笑ってサラを見つめ返した。ちょっとの間、呆けたように小首を傾げていたサラは、急ににっこりと笑うと納得したように頷いた。
「アスカが予想を立てて、ヨシノが証明するのね。オンライン上のアスカも、ヨシノとセットだったんだわ」
今度はヘンリーの方が驚いたようにサラを見つめた。
「きみならヨシノの代わりに、アスカの命題を解くことが出来る?」
瞳を輝かせて頷くサラに、ヘンリーは重ねて尋ねた。
「アスカを僕にくれる? 彼はいつだって、全てにおいてヨシノを優先させるんだ」
「――ヘンリーは、ヨシノが嫌い?」
「好きだよ。誰だってあの子を好きになる、そんないい子だよ。でも彼は、アスカを日本に連れ帰りたいんだ。ヨシノは英国を嫌っている」
「プレップの頃の欲張りなヘンリーに戻ったみたい。いつだって一番じゃないと気が済まない。それに、大切なものは大事にしまっておきたいの」
サラはコロコロと鈴を振るような声で笑った。
「きみは魔法でもかけるように、僕の望みを叶えてくれた」
ヘンリーの真面目な表情に応えるように、サラは真っ直ぐにヘンリーを見つめる。
「今、アスカの抱えている命題は何?」
「TSの量産化」
「それは違うわ。もうほとんど解決できているもの」
ヘンリーは戸惑って、言い澱む。
「じゃ、何なんだろう?」
「難攻不落な未解決問題て、ことね」
サラの答えにヘンリーはまた苦笑して、眼下のアスカに視線を戻す。
「寝ちゃってる。起こしてくる?」
いつの間にかベンチに身体を丸めるようにして横たわっている飛鳥を見て、サラは先ほどと同じように、ヘンリーのジャケットの袖を引っ張った。時折、風が、飛鳥のサラサラとした髪の毛を乱暴に煽っている。
ヘンリーは首を横に振って、ジャケットを脱いだ。
「夜、あまり眠れていないみたいなんだ。眠れる時に寝かせてあげて。これを彼に掛けてあげて。日陰じゃ冷えるだろうから」
むせ返るような薔薇の香りが、風に乗ってテラスまで漂っていた。サラは頷くとジャケットを抱え、階段を駆け下りていく。
ヘンリーはぼんやりとその姿を目で追いながら、眉根を寄せ、やるせない想いでため息をつく。
「ごめん、ごめんね、お祖父ちゃん――」
ヘンリーのジャケットを手に、サラがそっと足音を忍ばせて傍まで来た時、背の高い薔薇の花の陰に埋もれるように横たわっていた飛鳥は、目をぎゅっと瞑ったまま何か呟いていた。日本語らしいその言葉が何を意味するのか、サラには判らなかった。だが、あまりにも苦しそうな彼の様子に、思わず肩を揺すって、その名を呼ぶ。
「アスカ、アスカ、大丈夫?」
ハッと見開かれた下瞼に、涙がたっぷりと溜まっている。飛鳥は急いで手の甲でそれを拭い、起き上がる。
「悪い夢を見ていたの?」
横に腰かけて、心配そうにライムグリーンの瞳を曇らせるサラに、飛鳥は弱々しく微笑んで首を振る。
「薔薇の香りに引き込まれた」
「どんな夢だったの? すごく辛そうだった」
「もう覚えていないよ、ただ、蝉がうるさくて――」
サラはそっと手を伸ばして、小刻みに震える飛鳥の手に細い指を重ねる。
「解らないわ。英語で喋って」
え? と怪訝そうに目を眇めた飛鳥に、サラはもう一度繰り返した。
「日本語は解らないわ」
「僕は、今、日本語で喋っていた?」
自分自身に驚いている飛鳥を慰めるようにサラは微笑んで、その手をぎゅっと握りしめた。
「まだ寝ぼけているのね」
「そうみたいだ」
暗い瞳を伏せて苦笑すると、飛鳥は自由な方の手で、額や首筋のねっとりとした汗を拭った。
気持ち悪い――。また、吐き気がする――。
「シャワーを浴びてくる。すごく、汗をかいている。暑かったんだ」
真っ蒼な顔色と、焦点の定まらない飛鳥の虚ろな瞳を見やり、サラは黙って頷いた。




