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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第五章
230/805

  始まり4

 一抱えもある大きな花瓶の置かれた花台の足元にうずくまり、飛鳥は、こんもりと活けられた鮮やかな紫陽花の花を頭上に見あげた。


 こうしていると、吉野と庭でかくれんぼしているみたいだ――。


 今思い返すと、あんな猫の額ほどの狭い庭で、よくかくれんぼなんかできたものだ。吉野は、度々紫陽花の木の下にこうやってうずくまって隠れていた。飛鳥は見つけるのが下手だったから、わざと見つかるように紫陽花の下にいてくれたのだ。被さるように咲いた青い花の下の吉野を思い出す度に哀しくなった。それなのに、こんな鮮やかなピンクの紫陽花の下にいると、もしかしたらあの時、吉野は泣いていたのではなかった、かもしれないと思えてくるのだ――。


 短絡的な思考の変化に、飛鳥は苦笑して立ち上がり窓を開けた。

 夏だというのに、ここでは、虫の声も、蝉の声も聞こえない。蚊が入る、と吉野も煩くは言わないだろう。


 窓枠に手をついて、ぐいっと身を乗りだし、はるか遠くに見える稜線に目を凝らす。



「危ないよ、アスカ」

 緊張したヘンリーの声に、おもむろに振り返り、「夏なのに、夏じゃないみたいだ」と飛鳥は薄っすらと微笑んだ。ヘンリーには、その笑顔の意味するところが、嬉しいのか、淋しいのか判断がつかない。だから、首を傾げて訊ねてみた。


「日本が恋しい?」


 飛鳥は首を横に振って、また窓の外に視線を戻す。そして、もう一度ヘンリーに視線を戻して言った。


「ここに来て良かった。ほっとするよ。初めて来たのに、ずっと以前から知っている場所に戻ってきたみたいに安心する」

「デジャヴ?」

「そうかも知れない。きっと、魂の記憶の中にあるんだ」


 そう言って微笑んだ飛鳥は、やはりどこか淋しげで、切なげで、ヘンリーは妙に不安をかきたてられ、飛鳥に歩み寄るとその長い前髪をかき上げた。


「ほら、まだ顔色が良くない。サラに髪止めを借りてこよう。こう長いと、良く判らなくなるんだ」

「そんなの恥ずかしいよ」

「それなら髪を切る?」

 飛鳥は嫌そうに首を横に振る。


「ここでは誰もきみをからかったりしないよ」

「サラに笑われる」

「サラは笑わないし、フラットにいる時みたいに、輪ゴムで括っているよりずっとマシだと思うけどね」


 心配そうなその声に、逆に飛鳥の方が首を傾げた。


「きみが体調を崩したりしたら、僕がヨシノに怒られる」


 飛鳥は声を立てて笑い、あり得ない、とゆっくりと大きく首を振った。


「吉野は心配性なんだよ。ここは東京みたいに暑くないし、大丈夫だよ」




 飛鳥は夏に弱いから駄目だ、と、最後までマーシュコート行きを反対していた弟の怒った顔を、飛鳥は思い出していた。それを、仕事だから、やっとシューニヤに会えるのだから、と押しきってここまでやって来たのだ。


 飛鳥はもう先ほどまでとは違う明るい笑みを浮かべて、「自分の方がずっと手がかかるくせに。ハワード教授を困らせているんじゃないか、って僕の方がよほど心配してるよ」と長い前髪を邪魔そうにかき上げ、アーモンドのような大きな目を、いたずらに輝かせてヘンリーを見やる。


 ヘンリーはほっとしたように小さく息をつくと、穏やかに微笑んだ。

「それは間違いなく、教授を困らせているに違いないよ。まぁ、いいんじゃないかな、御本人がそれを望まれたのだし。きっと教授はその苦労を楽しんでいらっしゃる」飛鳥と肩を並べ、窓枠に手をついて、眼下に広がる幾何学模様の庭から広大な芝生から点在する木立の先の川を越え、遥かに霞むなだらかな丘の連なる稜線へと視線を流す。


「綺麗だろう? 特に何もないところだけど、静寂だけは確実に手に入る」

「それが今一番きみが欲しいもの?」

「いや。けたたましいのも嬉しいものだよ」


 廊下を走るパタパタとした軽い足音に微笑むと、ヘンリーは振り返ってドアが開くのを待った。




 ノックをする音とほとんど同時にドアが開かれ、サラが飛び込んできた。


「ヘンリー、アスカを独占しないで」

 サラは、唇を尖らせてヘンリーを詰るように見つめると、「見せて」と飛鳥の方を向いて、手を差し伸ばした。



 ああ、そうだった――。これを取りに部屋に戻ってきたのだった。


 飛鳥は焦って、自身の旅行鞄をひっかきまわしながら、目的の手紙を探す。


 あれ? と、小首を傾げる飛鳥に、ヘンリーがクスクスと笑いながら、手にした封筒を持ちあげてみせる。


「これだろう? ここに置いてあったよ」


 飛鳥は苦笑して頷き受け取ると、中身を確認して一枚抜き取り、残りをサラに渡した。サラは真剣な表情で紙面に目を走らせ、顔を上げると、飛鳥の手元に残した一枚の紙で目線を止めた。


「これは違う、ただの手紙だから」

 飛鳥はすかさずサラの視線に応える。

「この命題だけなの? お祖父さまが残されたのは? 証明は?」

 真剣なサラの声音に、飛鳥は黙って首を横に振る。

「それだけだよ。ハワード教授に祖父が託したのは。でも、」飛鳥は口ごもり、唇の端を引きつらせて深くため息をついた。「――でも、吉野が証明したよ。まったく、あいつは……」



 純粋数学になんか普段興味も示さないくせに、知らない間にハワード教授とかけあって、ケンブリッジ大学の早期入学を条件に祖父の残した命題をさらりと証明してみせた。その命題が祖父の作った問題ではなく、誰もが知っている訳ではないかつての数学上未解決問題だったから、ハワード教授の周囲は大騒ぎになった。


 もちろん、ハワード教授はこの問題の主旨を知っていた。これは、僕と吉野を試すための試験問題だったわけだ。


 今頃吉野は、教授に捉まって毎日数学の特訓を受けているはずだ――。



「あいつは餌がないと何もしやしないんだ……」


 眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げる飛鳥を見て、サラはころころと笑っている。


「まだ言わないで。私が解いてからにしてね」


 サラはそう言うとぺたりとその場に座り込んで、片手をヘンリーに伸ばした。ヘンリーは苦笑いしながら、自分のペンと手帳をサラに渡す。サラはそのまま俯せに転がって、嬉しそうに微笑みながら手帳の白いページを数字で埋め始めた。





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