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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
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  告白8

「これ、借用書よ」

 差し出された書類に、吉野は渋い顔をして首を横に振る。

「俺、言っただろう? アンに投資してやるって」

「だから遠慮なくそのお金で大学に行くわ。でも貰う理由はないわ。必ず返す。あのレシピは、あなたのもので、私たちに権利はないの」

「権利はジャックに譲ったって言ったろう?」

「お願い、ヨシノ、これ以上私たちに惨めな思いをさせないで」

 アンは声を振るわせ、膝の上でぎゅっと拳を握りしめている。


「金なんか……」

 吉野は不満そうに口を尖らせる。

「おかしいよ、こんなの。俺、自分のために、ここの厨房を使わせてもらってたんだぞ」

「もういいじゃない。その使用料の代わりに、私は無利子でこの権利金を借りる、わかった?」

 怒ったように声を荒立て、アンは椅子から立ちあがる。


「私、九月からシックスフォームを受けなおすの。学部変更をするから、足りない学科を補わなきゃ」

「どこに変更?」

「経営学部。この数ヶ月間、あんたと一緒にやってきて本当に楽しかった。エリオット校生目当ての女の子たちなんて大嫌いだったのに、来る度にあんたが作ったメニューを注文して美味しいって言ってくれるのが、いつの間にか嬉しくて堪らなくなった。もっと勉強して、あんたの友だちのアラブの王子さまも安心して一緒のテーブルにつけるような、そんな店を作るわ」


 アンは晴れやかに、誇らしげに微笑んだ。


「うん。アンならできるよ」

「だから、あんたが夏期休暇から戻ってくる頃には、私はもうここにはいないわ。元気でね」

「アンも頑張れよ」


 吉野も諦めたのか、笑って右手を差しだした。アンはその手を握り返し、そのまま吉野を抱き締めて耳許で囁いた。


「本当にありがとう」

 そして、パッと身体を離すと、テーブルの上の借用書の書類を手に取り、一枚を自分が、もう一枚を吉野の手に握らせる。



 こんなペラペラな紙切れ一枚で、私は吉野と繋がっていられる――。


 自分のあまりの未練がましさに涙が滲む。そんな想いを振り払うように、アンは頭をくいっと上げ、胸を張って笑った。


「じゃあね!」

「うん、じゃあな。またな!」


 吉野はいつもと変わりなくにっと笑って、ちらとジャックに手を振り店を後にした。




 カラン、カラン、と音を立ててドアが閉まる。ジャックはカウンターから出て、俯いて立ち尽くしたままの孫娘を、その大きな手に優しく抱き締めてやった。


「よし、よし、いい子だな」

「やだ、お祖父ちゃん。私、小さな子どもじゃないのよ」

 アンはジャックの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟く。

「わしから見れば、お前なんざ、まだまだ赤ん坊さ」

 ジャックは、肩を震わし声を殺して泣く孫娘の背中を、彼女の気の済むまで、その干からびた手で擦ってやったのだ。






「いろいろ大変だったんだね」

 さわさわと柳の揺れる川の辺にかかる隣町とを繋ぐ小橋を、自転車で駆け抜けてくるアンを見かけたベンジャミンは、走り寄り、慌てて呼び止めた。続く言葉を探しているのか、緊張した面持ちがぎこちない。


 アンは少し気恥ずかしそうに笑って、訊ね返した。

「ヨシノに聞いたの?」

 ベンジャミンは首を横に振る。

「学校で噂になっていた。きみのところ、なくなるんじゃないか、て」


 アンはケタケタと声を立てて笑い、「すごい! 地獄耳ね、エリオット校生って!」川風に騒ぐ赤い髪を押さえながら、明るい瞳でベンジャミンを見つめた。

「心配しなくてもあんたたちの食堂は健在よ。夏の間に改装するだけ。新学期からはいつも通りよ。メニューは少し変わるけれどね。じゃあね、もう行くわ!」


「待って! これ、きみに。その、似合うと思って」

 ベンジャミンはローブのポケットから、リボンのかかった包みを取り出し、差し出した。ポケットに入れっぱなしだったのか、すでにくしゃくしゃになって皺が寄っている。


「開けてもいい?」

 アンは目を見張り包みを開けた。可愛いらしい桜色のマネキュアに笑みがこぼれる。

「綺麗ね。ありがとう」

「僕は、きみのことが好きなんだ」

 突然の言葉に驚いて、ちょっとの間、沈黙が二人を包みこむ。



「ねぇ、見て。私の爪は、あんたたちみたいに綺麗じゃないの」

 アンはおもむろに、ベンジャミンに自分の手の甲を向けた。

「あんたは、紳士(ジェントルマン)だけれど、私は、淑女(レディー)じゃないのよ」

「そんなことない! きみは、」

「それにね、私には、泣いている時に黙って胸を貸してくれるような紳士は必要ないの。いつだって、好きな男の前では笑っていたいもの。たとえそれが、強がりでしかなくてもね」


 アンは少し淋しそうに微笑んだ。


「でも、ありがとう。私きっと、いつかおばあちゃんになったら孫に自慢するわ。『おばあちゃんは、あのエリオット校生(エリオティアン)に、プレゼント貰ったことがあるのよ』って」




 当惑して返す言葉を見つけられない相手を残して、アンは自転車にまたがり坂道を颯爽と駆けおりていく。

 その後ろ姿を、風になびく赤い髪を、なんとも言えない残念な思いで見つめながらベンジャミンは呟いた。


「きみは淑女だよ。いつだって頭を高く上げて、誇り高く生きているじゃないか。僕はきみみたいにカッコいい子を知らない――」




 ぼんやりと立ち尽くすベンジャミンの肩を、少し離れた柳の木の下で背を向けたまま待っていたチャールズが叩く。


「なぁ、紳士になるために生きてきて、紳士だからふられるって、ひどくないか?」


 振り向きもせず、茫然と呟くベンジャミンに、「それが英国だろ」と、チャールズは答え、所在なさげなその肩に腕を回して、慰めるように指先でポンポンと叩いた。





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