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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
213/805

  坂道6

 放牧地を見下ろす小高い丘に立つナナカマドの枝に、真珠のような白い花がたわわに咲きほこっている。その木の下で吉野は胡坐をかいて座っていた。


 土と草の香りを初夏の風が運ぶ。その風を追い駆けるように笛を吹いた。人っ子一人いない、はるばると見渡せる緑のカーペット上を、笛の音は空気に溶けるように流れていく。


 蹄の音と、ブルッッという馬の鼻声に、瞑っていた目を開け視線を上げた。


「またお前か」

 吉野は眉間に皺を寄せ呟いた。視線の先で、アレンは一瞬哀しそうな顔をして目線を地面に落とし、消え入りそうな声で呟いた。

「笛が、聞こえたから」

「風向きが悪かったのか……。ここなら麓まで届かないと思ったのにな」


 不機嫌さ丸出しで、ちっと舌打ちして笛を仕舞うその手元に、アレンはおずおずと目をやりながら、「僕は耳がいいから――。誰も気づいていないと思う」と小声でごにょごにょと言い訳する。

「聞こえない」

 睨めつけるように自分に目を向けた吉野に、アレンは拳をぎゅっと握りしめて、「少し、話してもいい?」となけなしの勇気をぶつけた。


「何?」

 吉野は思いがけなく少し表情を緩めてくれ、胡坐をかいていた足を伸ばし、ゆったりと木にもたれ掛かった。アレンはほっと息を継ぎ、手にしていた手綱を枝に括りつけ、吉野の横に腰を下ろした。


「ずっと謝りたかったんだ」

 幾ばくかの緊張を含んだ声を振り絞る。

 怪訝そうな吉野の視線を感じながら、「その、僕は、ここに来るまで学校ってところに通ったことが無くて――。ずっと、家庭教師に教わっていたから――」しどろもどろになりながら、アレンは一所懸命に説明する。


「うん、」吉野は微笑んで相槌を打った。その表情に、アレンは少しだけ肩の力も抜け、ゆっくりと噛みしめるように言葉を続けた。

「その、今考えてみると、随分と偏った教育を受けていたんじゃないかと思うんだ。それで――」

「うん、」

「今まで、きみに、すごく失礼な態度を取って来たんじゃないかと――」

「別に気にしてないよ」

 吉野は柔らかく微笑んで、目を細めて優しい声で応えた。


「飛鳥の言った通りだな。俺の兄貴、会ったことあるだろ?」

「――お兄さんは、なんて?」

「お前は、素直で礼儀正しい、いい子だって」


 自分はどうだっただろう――、とアレンは、必死で杜月飛鳥を思い返してみたが、そんなふうに受け取ってもらえるような、褒められるような記憶はまるでみつからない。コンサートの時だって、自分を庇ってくれた彼に、一言のお礼も言っていないのだ。思い返す度に認識する自分という人間のあまりの情けなさに、恥ずかしさで泣けてきそうだった。


「俺、別にお前がレイシストでも気にしないよ。まぁ、周りから見たら気持ちのいいものじゃないから、露骨に態度には出さない方が、お前のためだとは思うけどね」



 吉野の言葉に重なるように、ザザッー、と一陣の風が吹き、アレンの濃い金色の髪を撒き散らす。すっ、とその髪に吉野の手が伸ばされた。ビクリ、と身体を震わせて一瞬硬直したアレンの髪についた、細い草の葉を取り除きながら、吉野は苦笑混じりに静かに告げた。


「な、お前も触られるの嫌いだろ? 俺と同じだ。差別だのなんだの言われたって、嫌いなものは嫌いなんだろ。お前が有色人種を嫌うように、俺も白人が嫌いだ。おあいこだよ」


 想像もしなかった吉野の言葉に、アレンは茫然と、セレストブルーの瞳を震わせて大きく見開いていた。視界が滲んで見える――。


「違う――」

 声にならない声で呟いていた。


「じゃ、なんで僕を助けてくれたの? 何度も――。池の時も、パブでも――」

 やっとの思いで、掠れた声で訊いた。


「なんだ、バレていたのか」

「クリスときみの部屋に、ポップコーンが落ちていたんだ」


 くすっと苦笑した吉野は、照れたように頭を掻いて続けて言った。

「チャールズに頼まれたからだよ。それにお前はヘンリーの弟で、俺の兄貴はヘンリーの世話になってる。だから、別にお前が恩に着る必要はないよ」


 吉野は眼下に広がる緑を見渡し、それよりももっと遠いどこかを見ているように目を細めた。


「ガキの頃に植えつけられた嫌悪感や憎しみが、そう簡単に消える訳がないじゃないか。どんな綺麗ごとを並べられようが、届かない。俺の中には憎悪しか見つからない。だから、お前も俺に謝るな」


 それだけ言うと、吉野は口の端で自嘲的に嗤い立ち上がった。



「もう戻れよ、俺も帰るから」

 吉野は、今度は優しく微笑んで、「でも、ありがとな。同じことをサウードやイスハ―クに言ってやったら、きっとあいつら喜ぶよ」とだけ言い残して、木の裏にもたせかけてあった自転車に飛び乗って、あっという間に坂を駆け下りていってしまった。






「涙すら、出てこないよ……」

 全身から力が抜けきってしまったみたいだった。どのくらい、この木にもたれていたのか判らないほどに――。自分の肩に鼻面を押しつけてくる愛馬の首筋を撫でながら、アレンは力なく微笑んだ。


「慰めてくれているの? お前は、優しいね」


 木の幹に縋りつくようにしてなんとか立ちあがり、馬の首を抱え込んでぐっと抱きしめる。

「僕は、どうしてこう、愚かなんだろうね。謝れば、許して貰えると思っていたなんて――。でも、兄さんは、諦めるなって――。諦めないよ。神を信じるように信じられる相手に、僕も出会えたんだもの。信じるだけで、生きる勇気をくれるひとに、やっと出逢えたんだもの……」


 微かな馬のいななきに、アレンはその(たてがみ)を撫でて応える。


「ありがとう、行こうか」



 ひらりとその背に跨ると、アレンは力いっぱい地面を蹴って馬を走らせた。胸に溜まった虚しい想いをその場に捨て去り、振り切って逃げるように――。






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