坂道2
イースター休暇が終わりケンブリッジに戻ってきた飛鳥たちも、大学での慌ただしい日常に戻っていた。
アーネストは、エリオットにいるエリアスからの報告メールを確認してふっと微笑み、「ヨシノの手は、もうかなり回復しているそうだよ」
と横を歩く飛鳥に告げた。
「良かった。笛と弓がないと、あいつ、すぐイライラしだすから」
飛鳥は嬉しそうに目を細める。
「でも、このパブの女の子、大丈夫なの?」
アーネストは眉をひそめて心配そうに首を傾げている。
「大丈夫って? ちょっときつそうだけれど、可愛らしい、面倒見の良さそうないい子だったよ」
飛鳥は訝しげにアーネストを見つめ返した。
「エリオットは男子校だからね。可愛い子にちょっと優しくされると、コロッとまいってしまうよ。ヨシノは大丈夫なの? そんな子を近くに置いておいて」
予想外の真面目な問いかけに、飛鳥はかえって吹きだしている。
「アンは僕たちと同じ、あれ、いっこ下だったかな? 吉野からしたら、五つ、六つも上だよ。あり得ないよ」
「え、そう? 十分あり得ると思うけれど……。だってヨシノは、その子のことをすごく気にかけているんだろ?」
「大学に行けってね。家族の犠牲になってるような子をみると、放っておけないんだよ。吉野は優しいから」
飛鳥はすっと目を伏せて、困ったように微笑んだ。
「誰にでも?」
「誰にでも」
頷く飛鳥にアーネストは苦笑して言った。
「それは困った癖だね。やっぱりあの子は手のかかる子だよ」
飛鳥は声を立てて笑い、ふと通り過ぎようとしていた、校舎の裏手に植えられた一本の桜に目をとめて立ち止まった。
「アーニー、ソメイヨシノだ!」
嬉しそうに目を輝かせて、アーネストを呼び止める。
「日本の桜は、ほとんどがこの木なんだよ。英国に来て、初めて見たよ!」
日本人に負けず劣らず英国人は桜好きで、至る所に植えられている。だがソメイヨシノだけは、目にすることが無かったのだ。飛鳥は、ほっとしたように歩み寄って、その幹に触れた。頭上には、白色に近い淡紅色の花が枝一杯に満開だ。
「ちゃんと、英国にも根づいていたんだね」
「ヨシノと同じ名前の桜?」
アーネストの問いに、飛鳥はただニコニコと頷き返した。
右手のゴムボールをぎゅっ、ぎゅっ、と何度も繰り返して握る、そのゴムの摩擦音が途切れ、ふぅと息をつくのを見計らってから、クリスは吉野に声をかけた。さきほどから声をかけるタイミングを狙っていたのだ。
「リハビリは順調?」
「うん、生活する分にはもう困らない」
吉野は、椅子の上で思いっきり背中を伸ばして欠伸をする。
「きみ、本当に今年のIGCSEを受けるの?」
クリスは、つまらなそうに憮然とした顔をして訊ねている。
「国際スカラーの下級生組は、みんな受けるだろ」
「僕は来年だよ。きみがそのつもりだって知っていたら、もっと早くから準備したのに――」
「今年IGCSEでグレードAを取って、来年は、Aレベル。こんな学校、二年で卒業だ」
吉野はせいせいするとばかりに、にっと笑っている。
「きみはここが嫌いなの?」
数あるパブリックスクールの中でも、常にダントツで人気の学校なのに――。二年間に渡る受験期間を経てこの学校に入ったクリスには、吉野がなぜ、こうも早く大学に進学したがるのかが理解できない。
「エリオットで学ぶのは、勉強だけじゃないよ、ヨシノ」
クリスからしてみれば、あまりにも短絡的な吉野の言い分に納得ができないのだ。少しむっとして頬を膨らませる。
「紳士になるための学校だもんな」
吉野はくっくっと可笑しそうに笑う。
「なりたくないよ――、そんなもの」
吉野は、机に突っ伏して肩を震わせて投げやりに笑っていた。
「全く、なんで俺、こんな学校に来ちまったんだろうな。政治家になるのでも、金融に進む訳でもないのに……。俺みたいなのが、ここでコネ作ったって何の役に立つ? 卒業したら、もう二度と会うこともないよ」
「きみにとって、僕たちはその程度の存在?」
傷ついたように呟いたクリスに、吉野は、はっと口をつぐみ、「ごめん……、俺、疲れているんだ」と、言い訳する。
クリスは黙ったまま顔を伏せ、自分の机に向かうと片づけを始めた。もうじき、消灯の時間だった。
「僕も、きみのお兄さんに会いたかったな」
灯りの消えた部屋で、カーテンの隙間から差し込む月明りの中、仄かに浮かぶ天井を見るでもなく見つめてクリスは呟いた。
「フレッドが、言っていたんだ」
「うん」
「きみとは全然似ていなくて驚いたって」
「そうか?」
吉野は眠たそうに相槌を打つ。
「きみは早く大人になって、お兄さんやヘンリー先輩と一緒に、TSを造りたいの? だから、そんなに焦っているの?」
「TSなんかどうでもいいよ。あれは、ヘンリーの望みであって、飛鳥のじゃない。俺は、飛鳥を取り戻したいだけだよ」
「取り戻すって?」
「あいつにいいように使われて、やりたいこともできない飛鳥なんて、飛鳥じゃない。いつだって、飛鳥ばっかりが会社の犠牲になるのが嫌なんだ」
吉野は、クリスに背を向けたまま応えた。
枕に顔を埋めて、ロンドンで会った時の飛鳥の静かな瞳を思い出し、ぎりっと歯ぎしりをしていた。
飛鳥は、もう、何もかも諦めているみたいだったから。
前と、同じだ。祖父ちゃんや、父さんの言いなりになって、言われるままに使われる事で、俺たちを、家族を、支えてくれていた頃と。今も、あの時と変わらない。
飛鳥は今までずっと自分ひとりを犠牲にして働いていたのに、俺は、飛鳥が犠牲にしてきたものは何なのか、気づきもしなかった。考えたことすらなかった。
当たり前のように自分ひとり遊んで、我がままを言って、飛鳥を困らせてきた。
もうこんなのは嫌だ。
飛鳥が勉強が学生の本分だって言うから、勉強だけはきちんとやってきた。早くこんなところは出ていって、飛鳥に追いつきたい。追いついて、飛鳥を自由にしてやりたい。
吉野はそんな想いを、何不自由なく育ってきたクリスに話したいとも、話して判って貰えるとも、思わなかったのだ。
「飛鳥と俺の夢は、ヘンリーとは違うんだよ」
だから、それだけ言うと後はもう寝たふりをして、声をかけられても応えようとしなかった。




