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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
206/805

  避雷針8

 その日は朝から降りやまない雨のせいか、金曜日の午後だというのに客足はまばらで、暇だった。

 吉野は客の途切れた合間にカウンター席に腰かけて、アンと額を突き合わせて帳簿のチェックをしている。


「な、判っただろ? きちんと知識のあるやつがいじったら、これだけ利益が変わるんだ。別に経理の勉強をしろって言っている訳じゃない。そんなものプロに頼めばいいんだから。でも、今みたいなどんぶりじゃ駄目なんだよ」

 吉野は、昨夜、経済を専攻している先輩にチャットで教えてもらったタックス・リターンの申請の説明をしながら、くそ真面目な顔でアンをじっと見つめる。


「世の中ってのは、賢い奴らが、馬鹿な奴らから、搾取するようにできているんだ」

 真剣な眼差しにドキドキと胸が高鳴ったのも束の間、継いで発せられたシビアな言葉に、「子どもの言う事じゃないわね」とアンは、肩をすくめてケタケタと笑った。


「俺ん()の会社は、なんども乗っ取りを掛けられて潰れかかってたし、祖父ちゃんは借金を返すために首をくくって死んだんだ。馬鹿なままだとやられるだけで、ただ生きていくことすら苦しいだけなんだよ」


 冗談を言っている訳ではなさそうな吉野の表情を見て取って、アンは一瞬にして頬を強張らせている。


「…………。なに言ってんのよ。英国で一、二を争う高い学費の坊っちゃん学校の生徒が――」

「俺、奨学生だもの」


 そういえば、一度だけキングススカラーのローブをまとった吉野を見かけたことがあった。まだお互いを知らなかった頃だ。灯りを落とした店内で、何人かのエリオットの上級生に囲まれていた。ローブの少年が一番偉そうにしていたので、アンの脳裏にも残っていたのだ。


「でも……、あんたんちは――」

 潰れかかったって、言ったじゃないの……。アンは、咽喉元まで出かかった言葉を呑み込むと、きゅっと唇を引き結ぶ。そんな状況で留学なんてできるはずがない、と。


「乗っ取りを掛けてきたところより、もっと賢いやつに買収されたよ。だから今は、そこまで金に困っている訳じゃないんだ。なぁ、アン、大学に行けよ。ジャックがどうしても駄目だって言うのなら、俺がお前に投資してやる」


 吉野は淡々とした口調で言いながら、すっと表に視線を向け、窓に映った人影が扉を開ける前に椅子から下りた。アンは、眉をひそめてどう答えていいか判らないまま、カウンターの内側で椅子に腰かけ、コクリコリと居眠りをしている祖父に、憂いを含んだ視線を投げ掛ける。



 カラーン、と音を立ててその人物が店に入って来た途端、店内にひやりとした風が舞い込み、空気が変わった。横に立つ吉野に緊張が走るのに気づいたアンは、訝しげに振り返る。


 亜麻色のトレンチコートを着た若い紳士が、霧雨に濡れた金髪を掻き上げていた。そのあまりに印象的な姿態に、アンは息を呑み目を釘づけにされてしまう。



「やぁ、全く、きみって子はやってくれるね」

 ソフトなエリオティアン・アクセントで呼びかけると、紳士は優雅に微笑んで、コツコツと足音も高くまっすぐに、吉野に向かっている。


「子どもが酒場(パブ)で働くなんて、通ると思っているの? 日本に強制送還されたいのかい?」

「働いてないよ。金なんか貰ってない」


 吉野は目を伏せて口ごもりながら答えた。いつも生意気で強気な吉野の、その所在ない姿に驚きながら、アンもまた椅子から下りて吉野とその紳士をかわるがわる見比べる。


「屁理屈を言うんじゃないよ」

 ぴしゃりと怒られ、吉野はふくれっ面をする。

「本当だし。金を貰っているんじゃない。俺がこの店に金を出しているんだ」と、開き直ったように、きっ、と顔を上げて紳士を睨み返している。

 紳士は、可笑しそうにクスクスと笑った。


「ジャックはいるかい?」

 朝焼けの空のようなセレストブルーの瞳が、アンに向けられた。

「お祖父ちゃん、お祖父ちゃん!」

 慌ててカウンター内に身を乗り出して、眠りこけている祖父を起こす。名前を呼ばれて気がついたのか、ジャックはカウンターの陰から頭を持ちあげると、「よう、ヘンリー、久しぶりだな!」と居眠りを邪魔された不機嫌な顔から一転して、相好を崩した。



 このひとが、ヘンリー・ソールスベリー!


 アンは、まじまじと噂の人物を注視した。この街に住んでいる以上、この名を知らない訳ではなかった。だが本人に会うのは初めてだ。何年も前から同じ学校の女友達の間で騒がれていたのは知っていたけれど。所詮は自分とは縁のないエリート校のお貴族様だ。アンには、雲の上の人間に憧れることなど、無駄としか思えなかったから。



「ジャック、ヨシノが世話になったね。迷惑をかけてすまなかった」

「こっちこそ悪かったな。あんまり坊主を怒らないでやってくれや。わしが腰を痛めちまってね。坊主は手伝ってくれていただけなんだ」

 ジャックは頭を掻きながらすまなそうに笑っている。

「手が足りないのなら、何人か回そうか? この子が世話になったお礼に」

「そんなものは、いらねぇよ」

「そういう訳にはいかない。あなたに完治して貰わないうちは、この子は、また逃げ出してここに来るからね」

 その優雅な微笑に応えるように、ジャックは腹を揺すって笑った。

「違いない! 解ったよ、好きにしな。ヘンリー、時間があるなら、コーヒーでも飲んでいきなよ」

 返事も待たずにコーヒーを淹れる主人に、ヘンリーはにこやかな笑みでもって礼を言った。

「ありがとう、ジャック。ヨシノ、荷物をまとめてきなさい」


 憮然とした表情のまま、吉野は階段に続くドアを開けフロアを後にする。茫然として立ち尽くしていたアンは、慌ててその後を追った。



「お孫さん?」

 ヘンリーはカウンター席について、懐かしそうに店内を見廻しながら訊ねた。

「この店もずいぶん明るくなったね」

「坊主とアンのお陰でな」


 ジャックは目を細めて誇らしそうに笑っている。丁寧にドリップしたコーヒーをカップに注ぎ、「俺もそろそろ引退だ。坊主にも、アンにもまだ言っちゃいないが、息子にこの店を譲ろうと思っているんだ。坊主は俺の孫に、大学に行けってしきりに勧めていやがってな。そのための金をひねくり出すのにあの手この手で、案を出してきやがるんだよ。面白いガキだよ、あいつは」としゃべりながら、慣れた手つきでヘンリーの手前にコーヒーを置いた。優美な指先でハンドルを摘まみ、ヘンリーはゆっくりとその香りを吸い込み、口に運んだ。


「コーヒーだけは変わらず美味しいね。ハンバーガーは食べられたものじゃなかったけれど――」



 カラーン、カラン。

 ドアベルが鳴り、幾人かの客が入って来た。






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