避雷針7
「ジャック、もっと真面目に働いて孫を大学に行かせてやれよ」
吉野は、艶々としたウォールナットのカウンターに頬杖をついたまま、疲れた顔でため息をつく。
「せっかく、Aレベルであれだけいい評価を取っているんだ。勿体ないだろ」
ジャックは、大袈裟に肩をすくめて、「坊主、俺たちはお前とは違うんだ。労働者階級が大学へ行ってどうするんだ? 選挙にでも出馬しろっていうのか?」と自分で言ったジョークに自分でウケて、突き出た腹を揺すって笑っている。吉野はもちろん、笑えない。
以前とは比べものにならないほど客の入るようになったランチタイムの、客の出入りが切れた瞬間に、表のドアに『休憩中』のプレートを下げ、吉野はやっと腰を下ろしてひと息ついたところだ。
全く、こんなに忙しいならランチタイムの営業時間をきちんと決めろってんだ!
何をするのも、適当でその日任せ。気楽なジャックは、カレーがなくなったらランチはおしまい、と腰を痛めてまだ思うように動けない彼に代わり、キリキリと動き回ってフロアで料理を運ぶ吉野を、そんなの俺の流儀じゃない、と、ただただニコニコと眺めるばかりだ。
とはいえ、渋るジャックをアンと二人で説き伏せて、限定三十食から百食にカレーの提供数を増やした吉野の読みが甘すぎた。想定以上の観光客の多さに目の回る忙しさだ。
イースター休暇が始まってから、はや一週間が経っていた。
パブ『レッド・ドラゴン』は、ジャックの連れ合いが亡くなるまでは、一階はパブ、二階はレストラン、三階は簡易宿泊所だったのだ。二、三階が使われなくなってからすでに二十年は経っているのだが、その二部屋の客室のうちの一室に、吉野はこの休暇中寝泊まりしている。夕方、アンが来るまでフロアを手伝い、夜は皿洗いと厨房を手伝っている。
遅い昼食に、鍋で炊いたご飯を自前の浅漬けで食べながら、吉野は、これまた毎日の日課になりつつある提案を繰り返しているのだった。
「それじゃ、何のためにアンはアカデミック・コースを取ったんだよ? 大学に行きたかったからだろ? 解ってやれよ」
「あれの母親が馬鹿な夢を見せたただけだ」
ジャックは吐き捨てるように言い、煙草に火を点ける。
アンの両親が離婚し、アンは大学進学を諦めた。中流階級の母親と、労働者階級の父親は、結局上手くいかなかったのだ。
『あと数年もってくれたら、大学へ行けたのに――』
アンは諦めきった顔で淋しそうに笑って、時折そんなことを吉野に愚痴っていた。そして今は、アンは飲んだくれの父親を養うために、アルバイトを掛け持ちしながら一日中働いている。
インテリ女に騙されて息子は腑抜けになった、ジャックは、常連客相手にアンの母親のことを悪しざまに言い、その度にアンはそっぽを向いて聞こえない振りをしていた。
吉野はそんなアンのために、毎日、ジャックの説得を繰り返している。だが、いつも堂々巡りだった。
カラン、カラーン。
『休憩中』のプレートを無視してドアが開く。
「ヨシノ!」
よく通るアンの明るい声が響き渡った。
「今日、どうだった? 忙しかった?」
「随分と早いな。バイトは?」
いつもより二時間も早く店に来たアンに、吉野は訝し気な視線を向ける。
「早めに切りあげて貰ったの。こっちが気になって。ねぇ、忙しかった?」
昼食を食べ終わる頃に、ジャックが丁度良いタイミングで淹れてくれたコーヒーを飲みながら、「めちゃくちゃ、忙しかった」と吉野は思いっきり顔をしかめて見せた。
「やっぱり! 効果あるんだ!」
アンは明るい空色の眼を大きく開き、歓声をあげ、吉野の首に抱きついて頬にキスする。そしてすぐに、嫌そうに首を振る吉野の子どもっぽい反応に、「何よ!」と顔をしかめ、口を尖らせて文句を言う。
「せっかく、こんなに宣伝してきたのに!」
アンは、また口許を緩めて笑いだすと、鞄からスマートフォンを出して吉野に画面を向けた。
『パブ レッド・ドラゴン エリート予備軍エリオット校生の隠れた憩いの場』
SNSサイトに表示された文章を見て、吉野は呆れて大きくため息をつく。
「何だよ、これ……」
「見て、ほら、もうこんなに拡散されているの!」
アンは、嬉しそうにその文章の下に表示された数字を指し示している。
「休暇中なのに、今この街にいるエリオット校生は俺くらいだぞ――」
苦笑して呟きながら、
荒れた手だな――。
と、吉野には画面上の数字よりも、アンの、そのささくれた指先と、ガサガサの手の甲の方がよほど気にかかっていた。
浮かない表情の吉野に、アンは、「どう? すごいでしょ!」と、もう一度大声で呼びかけている。
「ああ、お陰で仕込み直さなきゃな、夜用のカレーが足りない」
ハイチェアーから下りて、自分の食器をまとめて持ち上げ、
「ジャック、俺、四時まで休憩でいいか? 仕込み、してくるよ。ついでにすぐに出せるメニューも増やすから」
「おう! あんまりごうつく張りになるなよ! 稼いだって、どうせお国に持っていかれるだけだからな!」
「持っていかれないように、上手くやるんだよ」
吉野はニヤッと笑うと、アンを一瞥し、くいっと顎で厨房の入り口を示して手伝うように促した。




