避雷針6
池の傍の、どんよりと重い灰色の空に枝を交差させる、背の高い楡の木を見あげて、吉野は揶揄うような笑いを含んだ声で叫んでいた。
「フレッド! そんなところで何やっているんだ?」
木の根元にローブにテールコート、ネクタイすら脱ぎ捨ててある。遥か頭上から吉野を見下ろしたフレデリックは、「やぁ、ヨシノ! きみの時計を見つけたよ! カラスが持っていったんじゃないかと思って、巣の中を探してみたんだ」と震える声で答え、クシュン、クシュン、と立て続けにくしゃみをする。
「花粉か?」
「いや、寒くて」
「降りて来いよ!」
吉野の呼びかけに、フレデリックは情けなさそうに、「降り方が、判らないんだ」と、叫び返す。
吉野はリュックから金具の付いたロープを取り出し、「投げるから、受け止めて!」と叫ぶ。
「無理! 手がかじかんで、まともに動かないんだ。それに、怖くて枝から離せないよ」
切羽詰まった声が降ってくる。
ひゅん、と風を切って手近な枝にロープを放り投げ、絡みつかせると、吉野は結び目に足を掛け、片腕で器用に登っていく。あっという間に、時折吹く強風に身を縮こまらせて、小刻みに震えているフレデリックの傍までやってくると、少し低い位置にある枝の上に立ち上あがる。
「手、見せて」
真っ赤になっている上に、ところどころに擦り傷のできた繊細な細い指先を見て、吉野は眉をしかめ、ローブのポケットから絆創膏を取り出して貼ると、そっと、冷え切った傷の無い手の甲を握りしめた。
「すぐ温まるから。――ずいぶん長いこと、そこに座ってたの?」
フレデリックは、また情けなさそうに苦笑する。
「ほら、少しはマシだろ? こっちの枝に来られる?」
吉野は右腕で幹に摑まり、空いた左手を差しだした。頷いて上方にある細い枝を握ろうとするフレデリックを、「あ、その枝は駄目だ」と吉野は慌てて止める。
「ほら、芽が出かかっているように見えるだろ? それ、花なんだよ」
フレデリックは、そっと指先でその赤黒いふくらみに触れてみた。
「この木に花が咲くの、知らなかったよ」
ふっと気が楽になって、差しだされた吉野の手を掴んで、恐る恐る枝を渡る。
吉野は逆に彼のいた枝に移動する。手袋を渡し、「傷が痛むだろうけど、それを嵌めてロープを伝って下りるといい。クリスとやったことあるだろ?」と優しく促す。
フレデリックは頷くと、歯を食い縛ってロープを伝い降り始める。
無事に地面に足がついた途端に、崩れるようにへたり込んで大きく息をついていた。
「ありがとう。助かったよ、ヨシノ」
見上げると、吉野はロープの金具を外して巻きあげていた。フレデリックに背を向けて逆方向にふわっと飛び立つ。
まるでスローモーションでも見ているかのようだった。黒いローブが翻り、羽のように膨らむ。空中を飛んでいる、そんな姿に囚われていた。
一瞬が、永遠のように感じられる。
トンと、降りたち、振り返った吉野を、フレデリックは泣きそうな顔をして見つめていた。
吉野は、地面に置いてあるフレデリックの制服を拾いあげ、渡しながら、「大丈夫?」と心配そうな顔をする。
「ありがとう、ヨシノ。はいこれ、きみの時計」
フレデリックは、スラックスのポケットから、黒の文字盤とシルバーメタルバンドが硬質な輝きを持つパイロットウォッチを取りだした。
吉野は黙ってその時計を受け取ると、池に向かって腕を振り上げた。
「やめろ!」
慌てふためいたフレデリックは、縺れる足で地面を蹴り、吉野に飛びついていた。二人して地面に倒れ込む。
「何をするんだよ!」
「やっぱり、お前なんだな」
息を弾ませながら先に身を起こしたフレデリックを、吉野は地面に転がったまま表情の読めない瞳でじっと見つめている。
みるみる青ざめていくさまから視線を逸らすことなく、「その時計、発信機だろ?」と畳みかける。
「アーネストに雇われたのか?」
吉野は立ち上がると、ローブについた草を払い、座り込んだままのフレデリックを冷たく見据えた。
「アーニーには黙っておいてやる。だけど、もう俺につきまとうな」
「僕はもう、きみの友人ではいられないの?」
俯いたまま、フレデリックは震える声で訊ねた。
「俺がこの学校にいるのは、飛鳥のためだ。お前たちを友達だと思ったことなんて一度もない」
肩を震わせるフレデリックを、吉野は泣いているのかと思い、自分の失言を瞬時に後悔していた。だが次いで聞こえてきたのは哄笑で、驚いて目を見張ることになる。
「きみもソールスベリーと同じことを言うんだね。そんなに誰かが大事? その為なら、周りの気持ちなんか平気で踏みにじれるものなの? 僕がラザフォード卿の依頼を受けたのは、きみに興味があったからだよ。あの彼に、友人と言わせたひとの弟だから」
ボロボロと泣き出したフレデリックを見下ろし、吉野は困惑したように立ち尽くしている。
「何が違うの? アスカ・トヅキと、僕の兄との違いは何だったのか教えて。兄だって、僕にはたった一人の掛け替えのないひとだったのに――」
気温が緩んできたとはいえ、水辺の風は未だ冷たい。
泣きじゃくるフレデリックの肩に拾い上げたローブを掛けてやり、その横に吉野はそっと腰かけた。そのまま何も言わずに、彼が落ち着くのを待っていた。
「兄が、事故に遭った日に、聞いたんだ。ヘンリーに友人じゃないって言われたって。兄には、それが、すごくショックみたいだった」
フレデリックの止まりかけていた涙が、また湧き出してきて頬を伝っている。
「意味が違うんだよ。あいつにとっての友人って、お前らが考えるよりも、もっと重いものなんだ」
吉野は水面を揺らす風を視線で追い、静かな口調で言った。
「あいつがなぜ飛鳥を気に入ったのかは俺も知らない。だけど友人だからってだけで、あいつ、うちの何百万ポンドもの借金を肩代わりしたんだぞ。いくら飛鳥に才能があるからって、そんな真似できるか? そんなふうに信じられるか?」
「どうして、きみのお兄さんだったの?」
フレデリックは、グズグズと鼻をすすりながら訊ねた。
「俺だって知りたいよ」
吉野は立ち上がり、手を差し出した。その手をおずおずと握り返したフレデリックを引き起こす。
「俺は友人って言えるほど、責任は持てない。だから、共犯ってことでどうだ? 協力しろよ」
「どういうこと?」とフレデリックは泣きはらした目を拳で擦り、訊き返した。




