夏の木陰
三日ほど降り続いた雨が止み、ようやく晴れ間が広がった。一気に気温が上がり、七月らしい陽光が降り注いでいる。
ネオ・ゴシック様式のマナー・ハウスを一望する広々とした芝生に面した池の傍に、ゴールデンアカシアの大樹がライム・グリーンの葉を茂らせている。夏の光を受けて輝くその枝葉は、対照的に黒々とした影を作りだし、そこに置かれたガーデンセットと腰かけている少年に、涼しげな木陰を提供していた。
「解けない……」
少年はブロンドの髪をかき上げ、眉をしかめてため息をついている。
白い鉄製のガーデンテーブルには、ティー・セットと何冊もの参考書や問題集が置かれている。少年は、それまで睨みつけるように見ていたそれを脇へ押しやると、ペールブルーのコットンシャツの袖をたくし上げ、襟元を緩めて、テーブルにつっぷした。
他の教科は問題なかったのに……。
算数! 算数だけに足を引っ張られているんだ!
彼が夏休み前にもらったyear6の成績表は、算数だけレベル4だった。11歳全国学力模試にしても、自己採点で算数だけがひどかった。
まさか、特待生クラスに入れないかもしれないなんて!
このままじゃ、エリオット校の受験すら危ない。家庭教師のブラウン先生に散々に説教されて、最後にそう脅されたのだ。最悪だ。
池の面から渡ってくる風が心地よくさわさわとライム・グリーンに輝く葉を揺すり、少年の混乱しきった脳味噌を冷ましてくれているかのように、その頬や、額や、髪を、撫でていく。
きらきらと光の踊る水面をぼんやりと眺めている彼に、こんな良い天気に、僕は何やっているんだ! と無性に腹立たしい、理不尽ないら立ちがふつふつと沸いてくる。
「算数なんて、この世からなくなれ!」
目の前の問題を視界から追いだすために、彼は目を閉じる。急速に眠気に襲われる。
考えても、考えても、解らない……。
疲れきった脳味噌には、これ以上は耐えられなかったのだろう。先ほどまで頭の中をひっかき廻していた数字や数式達が、散り散りばらばらに解けて、どこかへかき消えていく。
「ざまあみろ」
お前たちなんかに僕の頭を占領されてたまるか……。
どうでもいい……、
どうせ、考えたってわからないんだ……。
少年は、睡魔に抵抗することすらなく、深い眠りに落ちていった。
どのくらい経ったのだろう。
目を開けると、見知らぬ少女が彼の眼前に立っていた。
深紅の民族衣装を着て、漆黒のおさげ髪は腰まで届きそうに長い。
淡い褐色の肌、瞳は――。
少年は、はっと目を見開くと跳ねるように立ちあがると、一気にまくしたてていた。たった今まで寝こけていたとは思えないほどに。
「初めまして。英語は話せる? 僕はヘンリー、ヘンリー・ソールスベリー。君は?」
少女はびくりと身を震わせ、何か言おうと小さく口を開けた。たが緊張しているのか声にならない。
「失礼。まずは座って」
ヘンリーは自分の向かいの椅子をひき、少女に勧めた。
「どうぞ」
だが少女は真っ赤になってもじもじと俯くだけだ。
「紅茶でもどう?」
乱雑に散らかった参考書やノートをばたばたと片づけていく。だが、新しい紅茶のカップを取ろうと伸ばした手は、カップではなく、その横に開かれたまま置かれていた問題集を持ちあげていた。
少女の顔から、一気に血の気が引いていく。けれどヘンリーは、次々とページを繰りながら食い入るように手許を見つめていたので、彼女のそんな変化に気がつかない。
「ごめんなさい」
消えいるように少女が呟いた。ヘンリーは慌てて面をあげた。その頬を紅潮させてテーブルから身を乗りだし手を伸ばす。と、少女はびくりと身を強張らせた。
「これ君が解いたの? すごいな! 賢いんだね。そんなに小さいのに! レベル5の問題だよ! 僕は2時間考えても解らなかったのに!」
ヘンリーは興奮して叫びながら、少女の頭をわしわしと撫でた。その手の下で彼女の大きな目がことさらに大きく見開かれていた。弧を描いていた眉はきつく寄せられ、小さな唇をきゅっと結んでいる。だが、そんなことには気がつかないヘンリーは、夢中で喋り続けている。
そして彼は、山と重ねた参考書の下からノートを引っ張りだしテーブルにひろげた。
「答えだけじゃ解らないから、ここに解き方も書いて。解るように教えてくれる?」と好奇心に瞳を輝かせながら、少女の顔を覗きこんで懇願する。
少女は無表情のまま鉛筆を持つと、ノートにさらさらと式を書いていった。
「こっちの問題も」
無意識に自分だけがドサリと椅子に腰かけ、ヘンリーは少女の手許と、問題の横に答えの数字だけがつらつらと落書きされた問題集と、付属の解答集とを見比べ、答え合わせをしていった。驚きを隠そうともせず、感嘆の吐息をもらしながら――。
全問正解。
信じられない。すごすぎる。僕の寝ている間に、いったい何問解いたんだ、と。
彼を悩ませていた問題集には、何ページにも渡って答えが書き記されていたのだ。
「算数が好きなの?」
少女は嬉しそうに頷いた。ヘンリーは、少し恥ずかしそうな笑みを浮かべて言った。
「うらやましい。僕は大の苦手なんだ」
そして、ようやく喋るのを止め、じっと少女を見つめた。彼女もヘンリーを見つめている。静かに椅子をひき、ヘンリーは彼女の正面に立つと、にっこりと頬笑んだ。
「きみが、サラだね? きみの瞳、このゴールデンアカシアの葉っぱと同じだもの。お父さんの瞳の色だから、結婚記念に植えたものなんだ」
背後にそびえ立つゴールデンアカシアの樹を視線で示すと、ヘンリーはそっと少女の肩に手を置いて、その額にキスを落とした。
「よろしく、僕の義妹。こんなに早く逢えると思ってなかった。きみに逢うのをずっと楽しみにしていたんだよ」