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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
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  謹慎10

 その日、礼拝堂と学舎で囲む石畳の校庭を見下ろす窓という窓に、生徒たちは鈴なりになって、好奇心と憧憬の眼差しで貼りついていた。


「出てきた!」

 校長室に続く渡り廊下のアーチの陰から、ヘンリー・ソールスベリーがアレン・フェイラーを伴って現れた。


 一斉に窓が開かれ、歓声が沸き起こった。

 怪訝そうに見上げ、困惑して首を傾げているヘンリーの肩に、校長の大きな手がポンと置かれる。


「きみがここの言葉(アクセント)を忘れずにいてくれて嬉しいよ。きみは、今でもエリオット校生(エリオティアン)なのだな」


 ヘンリーは少し照れくさそうに笑い、校長と固く握手して幾つか言葉を交わした後、アレンを伴って歩き出す。




「フェローガーデンにはもう行った?」


 ゆっくりと進みながら、正面を向いたままでかけられた言葉は、傍には自分しかいないにもかかわらず、アレンには、自分に向けられたものだと判らなかった。もう一度同じ言葉が繰り返されて、やっと慌てて、大きく首を横に振る。


「桜が見ごろだよ。このガーデンは音楽棟に行く近道なんだ」


 アレンは英国に来てから初めて言葉をかけてくれた兄を、不思議そうに見上げ、遅れないようにと速度を上げる。


 ウイスタンにストラディバリウスを届けに伺った時も、こんなふうには話しかけては下さらなかったのに――。


 こうして傍を歩いていても、どこかふわふわと現実感がない。緊張で脚がからまり、転んでしまいそうだった。




 フェローガーデンに抜ける芝生に沿った遊歩道の脇に、真っ白な花を枝一杯に咲かせた桜の木が一本植えられている。ヘンリーは、その下に置かれた、雨ざらしにされ古ぼけて塗料の剥げ落ちたベンチに腰を下ろした。


「お前のことを教えて。僕はお前のこと、あまり知らないから」

 少し離れて俯いたまま立ち尽くすアレンに声をかける。アレンは、目を伏せたまま、絞るように声を発した。


「ごめんなさい。ご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」


 ヘンリーは立ち上がり、すっとアレンに向かって手を伸ばした。彼の弟はびくりと身を震わせて、ぎゅっと目を瞑って歯を食い縛った。


 そのまま、ふわりとその頭を撫でてやる。

 訝し気に眉を寄せ、アレンは怖々とヘンリーを見上げた。兄は、寂し気に微笑んでいた。



「やっと、アスカの言っていた意味が解った。僕はお前に、自分自身を重ねていたんだね。お前は僕じゃないのに――。お前は何が好き? 僕は、お前がパガニーニが好きじゃない、ってことしか知らない」


 ヘンリーはアレンの腕を取ってベンチに腰かけさせ、自分もその横に座って足を組み、彼に優しい笑みを向けた。


「僕は、ショパンが好き、です」

「そう。それなら、自分の好きなものを、好きなように弾くといい。その方が楽しいよ。周りに何て言われようと、僕になろうとする必要はないんだ。お前は、お前なんだから」

「あ――」


 アレンは、一瞬、泣きそうな顔をして笑い、大きな絆創膏の貼られた頬に、その細い指先で触れた。


「同じ言葉をくれた人がいます」

「友達?」

 アレンはぶんぶんと首を振る。

「僕はすごく愚かだから、そんな過ぎた事は望めません」

「もったいない。愚かな真似をしてしまったのなら、謝ればいいんだ。許して貰えるまで諦めずに。いい友人は一生の宝だよ。自分以上に自分を解ってくれ、その身が傍にない時でさえ、魂により添ってくれる。そんなふうに信じられる相手が一人いれば、こんな世界でも生きていける」

「僕には――」

 アレンは言葉を途切らせ、顔を伏せた。


「僕は――」

 ぐっ、と自分の顔全体を、アレンはしなやかな掌で覆い隠す。


「僕は、自分の立場を、わきまえているつもりです。ただ、あなたを兄と思うことを、許して下さい。決して、あなたの邪魔はしませんから」


「僕に依存するな」

 ヘンリーは顔を覆うその手を引き剥がし、強引に顎を掴んで、その顔を自分の方へ向かせる。


「ヘンリー・ソールスベリーの弟ではなく、自分自身になれ。そうしないと誰もお前を見てはくれないよ。僕に認めて欲しいのなら、他の誰でもない、アレン・フェイラーという人間を僕に見せろ」


 きつい口調でいい放つと、微かな苛立ちをみせ立ち上がった。


「お前は愚かだから、僕の言う意味が判らないんだろうね……。僕の弟という理由ではなく、お前自身を認めて愛してくれる友人が出来たなら、お前を弟として認めてやる」


 アレンはその大きな目を見開いて、声を掠らせ囁くように訊ねた。


「僕が、父の子どもでなくても?」

「だから、お前は愚かだと言っているんだ。そんな事はどうでもいい。僕は、僕のコピーを愛することはできないし、僕の言いなりになる奴隷が欲しいわけでもない。まして、僕の身内であることを利用しようとする輩は願い下げなだけだ」


 くるりと背を向け、ヘンリーは元来た道を引き返す。アレンは力なく立ち上がり、とぼとぼと遅れてその後を追った。




 遊歩道の終わり、校庭へ続く黒く塗装されたロートアイアンのゲートに、所在なさげにそわそわと佇んでいる影が見え隠れしている。セドリック・ブラッドリーだ。

 遠目にその姿に気づいたアレンは、全身を強張らせてローブのポケットにある帽子を握りしめる。


 ヘンリーはそのまま真っ直ぐに進んでゲートをくぐり抜けると、「やぁ、セディ、僕の愚弟をよろしく頼むよ。まだ何も判らない子どもなんだ」と声をかけ、その肩をポンと叩いた。


 セドリックは顔を伏せ、口をへの字に曲げて歯を食い縛っていた。後悔と、焦燥、そして何よりも恥ずかしさで、自分のものではないかのように身体がブルブルと震えていた。


「す、みませんでし……」

 声を振り絞って小さく呟く。

「選抜大会、きみの活躍を楽しみにしているよ」


 ヘンリーは、もう一度セドリックの肩を叩くと、すいっとその場から立ち去った。


 アレンは逃げるように小走りに寮の方向に行きかけ、急に立ち止まると、駆け出してヘンリーを追った。




「すみません!」

 振り返るヘンリーに、アレンは息を弾ませ、まっすぐにその瞳を見つめて言った。

「来て下さって、ありがとうございました」


 ヘンリーは柔らかく笑みを浮かべ、「その言葉が言えるなら、すぐに友人もできる」とだけ告げ、踵を返してエリオット校の正面ゲートをくぐり、外の世界へと戻って行った。




 その日の内に、吉野にかけられていた嫌疑は解かれ、元の部屋に戻された。


 そして翌日、生徒会メンバーの幾人かが辞任し、新たな役員の選出に、学校はまたもざわざわと動き出したのだった。






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