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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
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  謹慎5

「アレン・フェイラーは、ハーフタームの間はどうするか聞いているか? 米国(くに)に帰るのかな?」

 ベッドに寝転んで本を読んでいたクリスは、珍しく吉野からアレンの事を尋ねられ、驚いて顔を跳ね上げ、起き上がった。


「今回もロンドンのホテルに泊まるって言ってたんだ。だから僕の家に遊びに来ないかって、誘ってみたんだよ。そしたら、寮長の家に招待されているって!」

「今回も、って?」

「さすがにクリスマス休暇は実家に帰ったらしいけどね、秋のハーフ―タームはホテル暮らしだったって。どうしてお父さんの家に泊まらないんだろうね?」

「入院中だからだろ」

「え! そうなの? 僕、知らなかったよ」


 サクッ!


 吉野は、口を噤んで壁のダーツボードに向かい、左手でダーツを放つ。


 サクッ、サクッ――。


 続けざま、三本のダーツがボードに突き刺さる。


「ヨシノ、上達したねぇ。利き手じゃないなんて信じられないくらいだよ!」

 休暇明けに携えて戻ったハードダーツを、吉野は暇さえあれば投げているのだ。


 弓が引けないと、イライラするから――。


 そう言ってボードに向かう吉野は、まさに没頭しているって感じで、クリスにしてみれば、いつもどこか話しかけ辛い雰囲気で面白くはなかったのだが。



「それでね、」

 クリスはダーツが途切れた合間に、急いで言葉を続けた。

「寮長のお誘いを断って、僕の家に来てくれるって! 一緒に、チェロとピアノの二重奏をするんだ」

「そうか、良かったな」


 吉野は、ボードからダーツを引き抜くと、いつものように、にかっと笑う。その顔を見て、クリスもホッとしたように微笑んだ。



 クリスマス休暇から戻ってきてから、吉野はずっとピリピリしている。利き腕が思う様に使えなくて、きっといらついているのだ、とクリスは自分に出来ることは何でも手伝ってきたつもりだけれど、吉野は前よりもずっと無口になって、部屋にいる事も少なくなっていった。

 だが今日は、久しぶりにどこにも出かけずに、課外授業が終わってからの自習時間ものんびりと部屋で過ごしている。以前に戻ったみたいだ。



「ヨシノも、うちに遊びに来てくれればいいのに……」

 ダーツボードに向かう吉野を眺めながら、クリスは小さく呟いた。

「ありがとう。お前がケンブリッジに来いよ。他人(ひと)の家だから、泊めてはやれないけれど、街を案内してやるよ」

「本当に?」

「飛鳥は大学だし、俺もヒマだから」

「アレンが一緒でもいい?」

「別にいいよ」

 言い終わらないうちに、吉野は紙飛行機でも飛ばすように、ふわっとダーツを投げていた。





 日がとっぷりと暮れてから、ケンブリッジの飛鳥たちのフラットに到着した吉野は、玄関が開くなり、「飛鳥、俺、なんだかずっと息苦しいんだ」と死にそうな顔で訴えていた。


「大丈夫? 熱は?」

 アーネストは心配そうに吉野の顔を覗き込んでいる。

「平気だよ、アーニー。そろそろ言い出す頃だと思っていたんだ」

 そんな彼とは裏腹に、飛鳥はしたり顔で優しく吉野を見つめて、その短い髪をわしわし撫でてやる。

「よく我慢していたね。日曜日にでも来れば良かったのに」

「だって、レポートとか、何やかや忙しかったんだろ? それに祖父ちゃんの残したやつも……」

「平気だよ、それくらい。大したことじゃない」

 飛鳥は吉野の鞄を持ち、その腕を掴んで引っ張るようにして居間に向かう。アーネストは心配そうな顔をしたまま、その後に続いた。



 居間のソファーに腰を下ろすなり、「それで何がしたいの? 弓? 水泳?」飛鳥は膝の上で頬杖をついて苦笑しながら吉野の顔を覗き込む。

「笛。龍笛が吹きたい」

「持ってきているんだろ? 出しなよ」

 吉野はほっとしたように鞄から愛用の龍笛を取り出した。受け取った飛鳥が手早く袋を外し、中身を取り出しまた、「はい」、と弟に差し出した。


「飛鳥、運指、覚えている?」

越殿楽(えてんらく)くらいなら。吉野、しゃがんで。もうお前の方が僕より背が高いんだから」

 吉野は、床にぺたりと座り込んで胡坐をかいた。


平調音取(ひょうじょうのねとり)から入って」

 吉野の声に頷き返し、飛鳥も膝をついて左手を吉野の肩に置き、背後から腕を回して弟を抱え込むように龍笛に右手を添えた。久しぶりに触れる龍笛の質感が柔らかく指に馴染み、束の間の郷愁を呼び起こす。


「いいよ、吉野」


 目を閉じて、全身を張りつめ、耳を澄ませた――。




「ヘンリーが、ヨシノの笛は天上の調べだって言っていたけれど、正しくだね。動画の音や、フルートなんかと比べものにならない」


 一頻り奏で終わると、満足そうにソファーに寝転がってことんと寝入った吉野を眺めながら、アーネストは呆れたように笑った。


「僕の指だから、かなりマイナスだけれどね。驚いただろ? 以前にもあったんだよ、こんなことが。ドッチボールで突き指してさ、しばらく笛が吹けなかったんだ。こいつには息が出来ないのと同じなんだよ。あれから吉野は、絶対に球技はしなくなったもの」

「殊勝だねぇ。ヘンリーとは大違いだ」


 アーネストは、皮肉気にくすくすと笑い声を漏らした。だが、すっと真面目な顔をすると、「それなのに、その大事な右手を犠牲にしてアレンを庇ったのは、きみは、どうしてだか判っているの?」、と厳しい目つきで飛鳥に問うた。


「それは吉野だからだよ。とっさに手がでたんだ。意味なんてないよ」


 問われた意味が判らず、逆に飛鳥は訝し気に彼を見返している。アーネストは力が抜けたように、ふんわり微笑んだ。


 この兄だから、か――。



「ねぇアスカ、ちょっと、シューニヤに頼んで欲しいことがあるんだ。きみには、彼女と直接連絡を取ることができるんだろう? アレンをね、助けて欲しいんだよ、ヘンリーには内緒で」


 飛鳥が今まで見たことのないような、妖しく毒を含んだ瞳で、アーネストは笑っているかのように唇を歪めて、声を潜めて囁いていた。







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