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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
189/805

謹慎

 カラン、カラン、勢いよくドアベルが鳴る。

「ジャック! 荷物届いてる?」

「よぉ! 坊主、久しぶりだな!」


 エリオット校の面するハイストリートから幾つも入り組んだ裏通りを抜けた目立たない場所にある、石造りの古ぼけたパブの扉を元気良くバンッと開けて入るなり、杜月吉野は店内をぐるりと見渡して、目当ての山積みされた段ボール箱に歩み寄った。


「ジャック、コーヒー頼むよ」

 吉野は段ボール箱の数を目算すると、カウンターのハイチェアーに腰を下ろす。


「ほらよ」

「相変わらず暇そうだな」


 渡された明細書に目を通しながら、吉野は顔を上げて、もう一度客の一人もいない店内を振り返る。ペンキの剥げかけた黄色い薄汚れた壁や深緑の窓枠、歩くとキシキシと軋む傷だらけの木製の床を眺める。そう狭い訳でもないのに、フロアにはテーブル席が四組しか置かれていない。そこにかけられた朱のクロスも使い古しで色褪せている。壁際には、埃をかぶった古いピアノが一台あった。


「ほんと、小汚いよな、この店」

「口の悪いガキだな、ほっとけよ」


 ジャックはビール樽のように突き出た腹を揺すり、げらげらと笑いながら、大きなマグカップに淹れたブラックコーヒーを吉野の前に置いた。


「もっと、金をかけて手を入れたら、少しはマシになるだろ?」

「今のままでいい。忙しくなったら、わし一人じゃ回らなくなる」

 すでに七十歳を超える老主人は、そう言って加えていた煙草をゆっくりとふかした。

「これでもお前のハンバーガーで、夜はかなり客が増えたんだぞ」

 ジャックは目を細めてにかっと笑った。

「冷凍ハンバーグ、もう在庫が切れるだろ? 悪いな、俺、当分、凝ったメシ作れそうもない」

 吉野はスカラーのローブの袖を巻くって、ギプスに覆われた右手を振ってみせる。


「それでだ、レトルトやインスタントの日本食をしこたま買い漁ってきた」

 吉野は、壁際のダンボール箱を指さした。

「ジャックの取り分二割で、これ、ここでエリオットの奴らに売ってくれないか?」

 ジャックは訝し気に顔をしかめて訊ねる。


「なんで自分で売らないんだ?」

「校内で物品販売禁止だって、もう釘を指されているんだよ」

 あっけらかんとした吉野に、ジャックはまたも大笑いする。

「で、こんな小汚い店まで、貴族のお坊ちゃん方を来させようってのか!」

「小汚いのが恥ずかしいなら綺麗にしろよ」

「口の減らないガキだな!」

「あいつら、俺が怪我したの知って、一番に自分たちのメシの心配していたんだぞ。こっちはタダ働きで作ってやってたってのに!」

 吉野は、カウンターに頬杖をついて、唇を尖らせて顔をしかめる。



「なぁ、英国のメシが不味いのって、植民地政策でどんな僻地(へきち)に飛ばされてもその土地で我慢してやっていけるように、って本当なの?」

「さぁ? そんなの聞いたことがないぞ。まぁ、強いて言えば、食事ってのは楽しむってより、効率的にエネルギーを補給するものって思っている奴らが多いからじゃないのか」

「うそだろ? そんなの、飛鳥……俺の兄貴みたいじゃん。ここの奴ら、全然そんなことないよ。一度まともなメシ食わせたら、やっぱり不味いの嫌がるぞ。まぁ、味覚は確かに、鈍いけどな……。こんなレトルトで旨いって言うくらいにな。俺は無理だけど」


 吉野は立ち上がると、担いできたリュックを床から持ち上げ、どすんとカウンターに置いた。


「これからはハンバーガーの替わりに、チキンティッカマサラを出せよ」

 ジャックはくいっと眉毛を上げた。

「インド人を雇えって?」

「今から俺が作るから。ジャックでも作れるような簡単なやつ、考えてきた。チキンティッカはスーパーの総菜コーナーで買ってきたしな。ジャックもカレー好きだろ?」


 ジャックはニヤッと笑い、表に『休憩中』の札を下げるため、カウンターを出た。


「おい、坊主のダチか? 表にローブが立っているぞ」

 扉を開けたまま振り返って怒鳴っている。そして、吉野からは見えなかったその少年の腕を掴んで、店内に戻ってきた。


 アレン・フェイラー――。


「ジャック、先に厨房に入ってるよ」

 吉野はリュックを担ぐと、スタスタと奥の厨房に向かった。パタンと閉じられた扉を唖然として見つめ、ジャックはアレンを振り返る。

「なんだ、ダチじゃないのか? ま、暖まっていきな。ちょいと、しばらくここで留守番しといてくれや」と呆れたように肩をすくめ、吉野を追いかけて厨房に消えていった。




「おい、喧嘩でもしているのか? その態度はないだろうが」

 ローブを脱ぎ、左手のドレスシャツの袖口を唇でくわえて捲り上げ、黙りこくったままリュックから食材を出す吉野に、開口一番、ジャックは窘める様に顔をしかめる。


「友達じゃないよ」

 吉野は無表情のままだ。

「小汚いパブに入るのがよっぽど怖かったんだろうよ。この寒空に表で立ちんぼで、手が氷のように冷たかった」

 ジャックは吉野の頭を軽く小突いた。


「このチキン、ぶつ切りにして」

 だが吉野は黙々と調理に取り掛かるだけだ。

「坊主!」

「あいつが悪いわけじゃないよ。でも今は、あの顔を見たくないんだ。イライラするんだよ」


 ヘンリーと同じあの顔のせいで――。


 そう思う度に、自己嫌悪で胃がキリキリする。俺も、あいつらと同じだ――、と。そう解っていても、吉野にだってどうにもできないのだ。



 ジャックはじっと押し黙ったままの吉野の頭をくしゃっと撫で、包丁を持つと、チキンを切り分けにかかった。



「面倒なのはここだけだよ。これ以外のスパイスは調合してきてあるから、楽。あとは、レシピ通りに順番にぶち込むだけでいい」


 鍋からスタータースパイスの芳醇な香りが立ち昇る。




 扉越しにピアノの旋律が聞こえてきた。


 その滑らかな音の流れの違和感に、吉野は思わず眉根を寄せた。

「また、パガニーニ――。にしても、酷い音だな……」

 仏頂面のまま横にいるジャックを見上げ、「あのピアノ、調律に出せよ。滅茶苦茶じゃないか」と膨れっ面を向ける。

「そんなに酷いのか?」

 逆にジャックの方がきょとんとして訊き返している。吉野は、はぁ、とため息を吐いた。

「俺が金出すから、あのピアノ、修理にだしてくれ」


 吉野はトマトスープ缶を開け、鍋にどぼどぼと注ぎ入れる。




 多彩な小曲が切れ間なく流れてくる中で、ジャックはふっと、動作を止めた。


「ショパンの『Tristesse』だな。あの坊ちゃん、上手いじゃないか」


 怪訝な目をして自分を見つめる吉野を鼻先でふん、と笑い、ジャックは懐かしそうに目を細めていた。


「わしにだって、思い出の曲の一曲くらいはあるんだ」




挿絵(By みてみん)





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