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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
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  始動8

「あの野郎、飛鳥の名前を出しやがった!」

 吉野は膝の上のノートパソコンを叩きつけたい衝動に駆られながら、画面の中のヘンリー・ソールスベリーを睨みつけている。


 夕食の時間が終わり、ちょうど寮生が談話室に集まり寛いでいる時間帯に行われた『杜月』とコズモスの合併記者会見のせいで、吉野はもみくちゃにされ、散々な思いで自室に逃げ帰っていたのだ。それも束の間、今度はひっきりなしに訪れる友人たちから、またもや逃げ出さなければならなかった。


 やっとの思いで腰を据えてパソコンを立ち上げ、ラスベガス国際見本市のネット中継にアクセスした。アスカ・トヅキの名前で始まったヘンリーのプレゼンテーションを、胃の中が逆流しそうな怒りを覚えながら凝視し、自由の利く左手の爪を噛んでいた。


「こんなの、飛鳥が作りたかったものじゃないじゃないか……」

 吉野は、悔し気に唇をぎりっと噛み締めていた。




「ヨシノはいるかい?」

 ノックの音とともに、背後に寮長の声が聞こえる。

「ヨシノは、その、多分、談話室か、自習室で……」

 クリスのたどたどしい言い訳に、チャールズは微笑んで、その頭をくしゃっと撫でた。


「クリス、いいんだよ、彼を庇わなくても」と、ドアを大きく開くとツカツカと部屋に踏み込み、窓を開く。

「ヨシノ、部屋に戻りなさい。いつまでもそんなところにいたら風邪をひくよ」


 窓際まで大きく枝を張り出しているイチョウの木に腰かけていた吉野は、パソコンをかかえて渋々立ち上がり、窓枠に足を掛けるとひらりと室内に飛び降りた。


「外野がうるさいのなら、僕の部屋に来るかい?」

「あんたもその内のひとりだろ? 俺、会社のことは何も知らないからな、訊いても無駄だよ」


 チャールズは、吉野の手にしているノートパソコンに視線を落とし、「きみも見ていたんだろ? いやぁ、やはり彼は素晴らしかったねぇ。あの皮肉たっぷりなところがいかにも彼らしくて、ドキドキしたよ。この後の基調講演でリック・カールトンがどう出るか、見ものじゃないか。だから誘いに来たんだよ。消灯時間を過ぎるからね」と、心底感銘を受けた、といった風に頬を紅潮させ、瞳を輝かせて、吉野に耳打ちするように顔を寄せて囁いている。


「きみには消灯時間なんて関係ないだろうけれど、クリスもいるんだ。一緒に遊びにくるといいよ」


「リック・カールトンって? どういう意味?」

 吉野は怪訝そうに小首を傾げて訊き返す。

「あれ? もしかして知らないの?」

 大袈裟な声を上げ、チャールズは腕時計を一瞥する。

「点呼の時間だ。僕の部屋で待っていて。後で教えてあげるよ」

 意味ありげに言い残して足早に立ち去ろうとするチャールズを、クリスが慌てて呼び止める。

「寮長、僕も! 僕も、いいですか?」

「構わないよ、今日だけ特別にね」

 チャールズは楽しそうにウインクすると、軽やかな足取りで部屋を後にした。


「あいつ、やたら軽くて、なんだか英国人ぽくないよなぁ」

 消灯後の薄暗がりの中に吉野はほっと息を吐いてベッドに腰を下ろし、そのままゴロリと横になる。

「クォーターだからかな? 確か、お祖母様がイタリアの方だったはずだよ」

「へぇ……。ホントにもう、嫌になる……。あいつ、やっぱり俺にGPSつけているんじゃないのか?」

「ヨシノでも苦手な人っているんだねぇ」

 クスクス笑いながら、クリスは吉野の傍に腰かけた。


「そろそろ行こうよ、寝転がっていたら、本当にそのまま眠ってしまうよ」

「どうでも、いい……。ガン・エデンのCEOなんか……」

「駄目だよ、僕は知りたいよ、ヨシノ。ちゃんと付き合って! 僕一人じゃ、行けないよ!」

 目を瞑って眠りかけている吉野の肩を、クリスはがくがくと揺さ振った。

「それに着替えないと。制服、皺になるよ! それに……。テストは! 大丈夫なの!」


 吉野はがばっと起き上がり、深くため息を吐いた。

「忘れていた。明日、ラテン語と、歴史、小テストだ……」


 吉野は急いで制服を脱ぎ捨てて、ジャージに着替え始めた。脱ぎ散らかした制服をクリスが拾い集め、丁寧にハンガーに掛けてやる。

「いいよ、そんなこと。自分でやるよ」

「今だけだよ。きみの手が良くなるまではね」

「ありがとう」

 吉野はにかっと笑うと、慌ててテキストを持ち、ドアに向かった。

「お前はいいの?」

「うん、さっきまでやっていたから」

「あー! 言ってくれればよかったのに!」

「だってヨシノ、ずっと外に隠れていたじゃないか!」

 ブツブツと文句を言う吉野を、しぃっと苦笑しながら宥め、電気の消えた暗い廊下にそうっと足音を忍ばせ、けれど急いで寮長室に向かった。



「アレン、きみも呼ばれたの?」

 寮長室に入るなり、開かれたドアにびくりと目を見張り、居心地悪そうにソファーから腰を浮かせたアレン・フェイラーを見つけ、クリスは思わず大声をあげそうになっていた。慌てて手で口を覆い声を潜めて訊ねる。

「うん。兄の基調講演をここで観ていて構わないよ、って」

 どうやらアレンはずっと寮長室にいたらしい。談話室や自室では、この時ばかりは構ってくる連中もいるだろうから、とのチャールズの配慮らしかった。


 アレンは、クリスの背後にいる吉野をチラリと見やると、戸惑いを隠せないまま目を伏せている。吉野はそんなアレンにはお構いなしで、勝手にチャールズの机について、もうテキストを開いている。


「みんな、揃ったかな?」

 点呼を終えたチャールズが戻って来た。

「ちょっと邪魔するよ」

 チャールズは、ローテーブルに置かれたノートパソコンの中継画面を一旦切り、他の画面に切り替えている。


「ヨシノ、おいで。きみはこの動画のことは知らないのだろう?」

 眉を寄せる吉野の腕を引っ張って、アレン、クリスと並ぶソファーに腰かけさせる。

「ガン・エデン社が今年発表した、五年から十年先を予測したコンセプト動画だよ」


 僅か三分程度の短い動画だったが、見終わった後、三人は黙り込んだまま、一斉にチャールズを見つめていた。


「これって……」

 吉野が苦虫を噛み潰したような顔で、まず口を開く。


「あいつが発表したもの、そのままじゃないか!」

「そう、彼はガン・エデン社の十年計画をかっ攫って実現したんだ」

「あの野郎、こんなくだらないものを飛鳥に作らせやがって!」


 吉野の罵声に、チャールズは、しぃっと唇に人差し指を当てる。勢い良く立ち上った吉野の肩をポンポンと叩いて宥め、もう一度座るように促した。


「静かに。消灯時間を過ぎているんだ。それに、そろそろカールトンの基調講演が始まるよ」


 静かな表情のまま、国際見本市の生中継を放映しているサイトに画面を戻す。


「どうも、遅れているようだね。まぁ、当然か……。ほらヨシノ、爪を噛むんじゃないよ」

 吉野の横のひじ掛けに腰を下ろし、チャールズは、彼の腕を軽く押さえた。

「その癖、なかなか治らないねぇ……」


 客席のざわめきだけが伝えられるパソコン画面に再び視線を戻す。

「このまま中止かな。僕が思うにね、今回のガン・エデン社の新製品は、彼が言ったそのままの製品だろうからね。『前のバージョンよりも何ミリ薄くなったとか、何グラム軽くなったとか』ていうね。そんなもの、今更もったいぶって出せる訳がないよ――」



 だが諦めかけた頃になって、ガン・エデン社の基調講演が始まった。


「技術部長のディーン・ハミルトンだ。やはりカールトンは出てこないか。ああ、開発中の仮想現実(VR)の発表に切り替えたね」


 チャールズは、声を押さえてくっくっと嗤っていた。


「基調講演で、新製品を発表できないなんて!」

「もういいよ。俺、明日小テストなんだ。時間を割いてやったんだから、責任もってここで勉強させろよ」

 吉野はもういつもの調子で、立ち上がって机に向かう。

「へぇ……。ヨシノ、真面目だねぇ」

「今年度のIGCSEを受けたいんだ」

 それだけ言うと、もう吉野は黙々とテキストに向かっている。



 基調講演は三十分遅れて始まり、予定時間通りに終わった。チャールズは立ち上がるアレンの肩を叩いて、その頭をわしわしと撫でてやった。


「きみのお兄さんは素晴らしい方だよ。明日からまた、きみの周辺も騒がしくなるかもしれないけれど頑張るんだよ。クリス、きみもね」


 二人を送り出しながら、そっとチャールズはクリスに目配せする。アレンの周囲が騒がしくなる――、だから気をつけてやって欲しい、というそのサインに、クリスは瞳を輝かせて頷いていた。



「部屋まで送って来るから、勝手にいなくなるんじゃないよ」


 振り返りざま吉野に一言釘を刺してから、チャールズはパタンと寮長室のドアを閉めた。






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