始動3
「吉野、こちらは、」と紹介しようとする飛鳥をその老紳士が押しとどめた。
「だけどね、学生たちの遊び場にこんな年寄りが出ていくとなると座がしらけるだろう? きみならどうするね?」
「いかさまが通用しない世界があることを、教えてやる」
吉野は警戒心丸出しの渋い顔で答える。
「だめだよ、吉野。今日はカードはしない約束だ」
飛鳥が厳しい顔をして窘める。
「ワンゲームだけどうだね。それ以上は私が止めに入るから。アスカ、いいかね?」
紳士は茶目っ気のある青い瞳で、頼み込むように飛鳥に頭を下げた。飛鳥は困惑してしまい、答えられない。そんな二人のやり取りを吉野は黙って凝視している。
「ワンゲームだけですよ」
間を置いて、飛鳥はため息交じりにしぶしぶ頷いた。
「オールイン」
まったく表情を変えることなく、吉野は積まれたチップのすべてを前方へと押しやる。
「フォールド――」
「俺もフォールドだ」
淡々とした吉野を一瞥して、まいった、と軽く苦笑しながら、次も、その次の学生も、勝負から降りていく。
最後のプレーヤーは、落ちつきなくチップをチャラチャラと触りながらじっと黙り込んでいる。そんな彼を、「早くしろよ。せっかくAのセットができたんだろ? おめでとう。フルハウスじゃないか」と、吉野は薄ら嗤って馬鹿にするような口調で揶揄する。
ボードには、Aが一枚と9が三枚開いて置かれている。
「ヨシノはフォーカードだな」
テーブル周りのギャラリーから囁き声が漏れ聞こえる。
吉野の向かいに座る金髪で眼鏡の学生プレーヤーは、ちらちらと助けを求めるように辺りに目を配っていたが、やがて、青ざめて怯えたように視線を伏せた。――手札を読まれているのだ、と観念したのだろう。あるいは、それ以上のことも知られているのだ、と……。
勝負はもう、ついているのだ。
「フォールド――」
彼の手持ちカードが、テーブルにそっと置かれる。続いて吉野が自分のカードを表に向ける。
勝負を見守っていたギャラリーから、どっと歓声と笑い声が上がった。
「ハイカード!」
「ブタだ!」
「手持ちがA二枚なら、強気でレイズだろ? 狡い手を使うから、勝負に出られないんだよ」
吉野は皮肉に嗤うと、背もたれにかけておいたミリタリージャケットを手にとり立ち上がった。
「おや?」
ジャケットを羽織ろうと伸ばした右腕を先ほどの紳士に掴まれ、思いきり顔を寄せられていた。
「この筆跡はソールスベリーだね。『また、きみのフルートを聴かせて欲しい』か。彼に認められるとは大したものだな」
ギプスに書かれたメッセージが読みあげられると、またもやそこら中がどよめき立った。数多の手がそれを目がけて伸びてくる。
「どれがヘンリーのメッセージ?」
「見せて!」
あっという間に、吉野は揉みくちゃにされそうになっていた。
「ヨシノ、こっちへ」
左腕をぐいっと引っ張られたかと思うと、人混みをかき分けて進む背中に吉野はずんずんと店の裏口に続く通路まで連れて行かれていた。薄暗い中、やっと立ち止まり振り返った相手に、吉野は嬉しそうに顔をほころばせる。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「元気すぎて太っちゃったよ。日本はご飯が美味しいからねぇ! ヨシノはちょっと見ない間に背が伸びたねぇ~」
クリスマス休暇で戻っているデヴィッドだったのだ。思いがけなく見知った顔に出逢えた安心感からか、吉野の声はいつになく弾んでいる。それはデヴィッドにしろ同じだったのだろう。零れんばかりの笑みを湛え、吉野をハグする腕にも温もりがこもっていた。
「それにしてもどうしたの? これじゃ料理できないじゃん。吉野のご飯、楽しみにしてきたのにぃ」
だがその笑顔も束の間、吉野のジャケットの下で見え隠れするギプスに気づくと、デヴィッドは眉をひそめて怒ったように頬を膨らませた。
「それに、教授、こんなところで何をなさっていらっしゃるのですか?」と、さらには遅れてやって来た飛鳥と先ほどの紳士に訝しげな視線まで投げつけている。
「オールド・ラング・サインを歌いにきたのだよ。四十年来の古い友人と再会して、過ぎ去った昔を懐かしむためにね」
銀髪の紳士は目を細めて優しく微笑み、飛鳥の方を向くとその頭をわしわしと撫でた。
「数学橋のたもとで、カレッジのローブをまとって途方にくれていたきみを見つけた時には、時間が巻き戻ったかと思ったよ。約束通り、彼がケンブリッジの学生になって私に会いにきてくれたのだと」
「そんなに似ていますか? でもその通りです。祖父とあなたとの約束を守るために、僕はここに来たんですから」
飛鳥は少し恥ずかしそうに首を傾ける。
そして、眉をひそめたままじっと不穏な視線で睨みつけている吉野の腕をとると、今度こそ、この紳士を紹介した。
「吉野、この方が、エドワード・W・ハワード名誉教授。お祖父ちゃんのいつも話していた、『ゴールデン・テディ』だよ」
「飛鳥は外見がそっくりだけど、彼の性格はきみの方が受け継いでいるね。あのはったりのかまし方は、まさに倖造がその場にいるかのようだった」
ハワード教授は肩を揺すって笑い、「倖造は、確かに、きみたちの中に生きているんだな」と感慨深気に息をついた。
「ずっと後悔していた。高等教育を受けるように、あの時どうして、もっと強く勧めなかったのか……。倖造なら、日本のラマヌジャンにすらなりえたのに……」
「それであんたはハーディーになり損ねたって? 余計なお世話だ。あんたのことは懐かしがっていたけど、祖父ちゃんは後悔なんかしていない。そんな懐古趣味に浸る暇もないくらいに、死ぬ寸前まで今を生きていたよ」
今でも、何故、祖父が死を選んだのかは判らない――。
だが、最後に自分に向けられた祖父のすっきりとした笑顔は、記憶に焼きついている。そこにはどんな迷いも、後悔も、憎しみや無念さすら見出せなかったのだ。
「カウントダウンだ」
フロアから聞こえてくる歓声に、デヴィッドが呟いた。
「7、6、5、4、3、2、1!」
大歓声にフロアが沸き返る。
「新年おめでとう」
吉野の言葉に、飛鳥は泣きそうになりながら息を呑みこんで、笑って新年の挨拶を交わし合った。
フロアで演奏される曲に乗って、『オールド・ラング・サイン』の大合唱が始まった。
古い友人は忘れ去られ、
もう二度と思い出されることもないのだろうか。
古い友人は忘れ去られ、
古き良き日々の記憶もまた、心から消え去ってしまうのだろうか。
親愛なる友よ、古き良き日々のために、
古き良き懐かしい日々のために、
親愛なるこの一杯を飲みかわそうではないか。
古き良き日々のために。
「教授、祖父を忘れないでいて下さって、ありがとうございます」
飛鳥は声を震わせて、ハワード教授に深く頭を下げていた。
『Auld Lang Syne』スコットランド民謡。「蛍の光」原曲。英国では新年に歌われる。
Should auld acquaintance be forgot,
And never brought to mind?
Should auld acquaintance be forgot
And auld lang syne?
For auld lang syne, my dear,
For auld lang syne,
For auld lang syne.




