表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
181/805

始動

「目が覚めた?」

 飛鳥の声に目を開けると、吉野は眩しそうに目を細めた。身体を起こすと、頭がふらつく。

「まだ無理しないの。かなり高熱が出てたんだよ」

「なんで? 怪我のせい?」

 吉野はおぼろげに記憶を探りながら訊ねる。

「風邪だよ。自覚なかったんだ?」

「風邪? 俺でも風邪ひくんだな」

 吉野は、膝を立て、気怠げに頭をもたせかける。


「あー、でも、言われてみれば、けっこう、きつかったかな……」

「また悪さしていたんだろ?」

 飛鳥は、ペットボトルの水を渡しながら、揶揄うように言う。

「練習時間がぜんぜん取れなくてさ、寮の自習用防音室の合鍵を作って忍び込んでさ、夜中に吹いてたんだよ。だからずっと寝不足で……。短期ならともかく、俺、ヘンリーみたいに毎日一晩中練習なんて、絶対に無理だわ。あいつ、よっぽどヴァイオリンが好きなんだな」

「そう? 吉野も、龍笛を吹いている時は時間を忘れているよ」

「ああ、それは別物だよ。息をしているのと同じだもの」と、吉野は思い出したように唇をきっと引き結び、自分の今は動かせない右手に視線を落とす。



「あいつ、来てたの?」

「うん。米国に発つ前にね。お前に謝ってたよ」


 落書きだらけのギプスの僅かに残っていた余白に、見覚えのある特徴的な筆跡で書かれたメッセージがあったのだ。


 ――すまなかった。早く良くなって、また、きみの笛を聴かせてほしい



「謝るんなら、アレンに謝れよ」

 吉野は皮肉に笑って、ごろりと横になる。


「でも、あいつ、ちゃんと聴いてくれてたんだ。なにか言ってた、感想は?」

 どこか嬉しそうな吉野の様子に、「お前でも、評価を気にするんだ?」と飛鳥もにこにこしながら、だが少し意外そうな顔をする。

「ほかはどうでもいいけど、ヘンリーのは、知りたい」

 吉野は片肘をついて身体を起こすと、ふふ、と笑ってばかりでなかなか教えてくれない飛鳥の膝を、ポンポンと催促するように叩く。

「僕のパガニーニは悪魔の旋律だとしか言われることはなかったのに、吉野のそれは、天上の調べだ、って」

「大袈裟だな、ほめ過ぎだよ」

 照れたように否定しながらも、吉野は頬をにやつかせている。


「嬉しいんだ?」

「そりゃあね。賛否両論でさ、あんなのパガニーニじゃないって、散々言われた。でも、あいつがいい、って言ってくれたんなら、頑張った甲斐 があったよ」

 またドサリ、と枕に頭を埋め、目を瞑る。身体を起こしていられないほど辛いのか、と飛鳥は微かに眉根を寄せ、さり気なく弟の額にかかる髪の毛をかき上げた。


「――頑張ったんだね?」


 額がまだ熱い……。もうあまり喋らない方がいいのか、と迷いながら、呟いていた。


「当たり前だろ? あいつに教わった通りに演奏していたら、間違いなく馬鹿にされるもの」

 怪訝そうな顔をする飛鳥に、吉野は、「あいつは、他人のコピーで満足しているような奴は、嫌うだろ?」と自嘲的な笑みを向ける。



 熱そうにパジャマの胸元のボタンを外し、掌で汗を拭う吉野にタオルを渡した。「もう少し、休む?」と飛鳥は、心配そうに訊ねる。


「腹減った」

 だが、思い出したように真顔で言う吉野の口調に、思わず吹き出した。

「相変わらずだなぁ! アーニーも、もう実家に戻ったし、大した物が無いんだ。レトルトのお粥でもいい?」

「レトルトかぁ……。日本製?」

「日本からアルが送ってくれた非常食だよ」

「へぇ、あいつ、やっぱりできる奴だな!」



 温めるだけのお粥を器に盛ってトレーにのせ、ベッドヘッドにもたれかかって半身を起こした吉野に渡す。

 まだ微熱が残っているとはいえ、昨夜よりもずっと楽そうに食事を取る吉野を、飛鳥はほっとしたように眺めている。



「吉野が眠っている間に、ヘンリーと話したんだけれどね、」

 ちょっと恥ずかしそうに笑い、飛鳥は肩をすくめていた。

「ヘンリーが虐待されていた、って思ったのは誤解だったみたいだ。僕の早とちりだったよ。米国じゃ、ヘンリーも、ネグレクトに近い扱いはあったらしいけれどね、年に一度、クリスマス休暇の間のことだけだったし、虐待を意識したことはなかった、って」


 吉野は食べかけていた手を止める。

「アレンも?」

「アレンのことは判らないって。本当に最近まで、ほとんど会ったことがなかったんだって」

「それなのに、あんな真似をするっていうのも、信じられない話だな。いつものあいつからは、想像できない」

 吉野は首を捻りながら呟いた。


「どうしてあんなに、アレンや、米国の親族のことを嫌っているのかは、教えてもらえなかったよ。――もう、一年以上一緒にいるのに、判らないことだらけだ」

「まだ一年だよ」

 吉野は再び、目線を手許に戻しもどかしそうに左手を動かして、スプーンを口に運ぶ。



「飛鳥は、あいつと一緒に米国に行かなくて良かったの?」

「父さんが行くんだよ」

「じゃ、いよいよなんだな」

 飛鳥は頷くと、「楽しみで待ちきれないよ」と、誇らしげに瞳を輝かせた。

「そういや、クリスマスに試作品見せてくれるって……」

「やっぱり駄目。もったいない。発表まで待ちなよ。今見たんじゃ、ネタバレみたいで面白くないもの」

「自信あるんだ?」

「すごいよ、コズモスは」

「うん」

 吉野は素直に頷いた。



「あいつが凄いのは、よく解った」

「ヴァイオリンで?」


 自信家で負けん気の強い吉野が、こんなふうに他人を褒めるなんて――。


 飛鳥はにこにこと顔をほころばせながら、訊ね返した。吉野は視線は食事に据えたまま、淡々と話し続けた。


「普通、自分の実力はこのくらい、って、誰だって決めてかかって、そういう自分に見合った努力をするだろ? でもあいつは、そこからもう一歩上に引き上げてくれるんだよ。まだいける、って教えてくれるんだ。ここはまだ、お前の限界じゃない、って言われている気分にしてくれるんだ」

「きっと、本当にそう言っていたんだよ。彼のヴァイオリンは彼の言葉だから――」


 飛鳥は嬉しそう笑って手を伸ばし、吉野の頭をくしゃっと撫でた。


「ヘンリーも、吉野のこと凄いって言っていたよ。あんな凄い馬鹿は見たことがないって」







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ