用意周到8
「ただいま、サラ。今年のクリスマスは特別だよ」
粉雪がチラチラと振り落ちる中、正面玄関で駆け寄って迎えてくれたサラの頬にキスして、ヘンリーは優しく微笑んだ。
「今年は何? ヘンリーは毎年、『今年は特別だよ』って言ってるわ」
サラは悪戯っぽく瞳を輝かせる。
「今年は本当に特別。プレゼントがふたつある」
旅行鞄を受け取ろうとする執事を仕草で断って、ヘンリーはそのまま応接間に直行する。
重苦しい紅色の壁、高い天井、そこから見下ろしているような先祖の肖像画――。
じっと立ち尽くし、感慨深気に、けれど皮肉に唇を歪めて、ヘンリーはゆっくりと、生まれ育った馴染み深い我が家の応接間を見回している。
「ヘンリー?」
そんな彼を、訝し気にサラが見つめている。
「まずは、お茶にしようか?」
にっこりと微笑んで、二人並んでパチパチと炎のはぜる暖炉の傍のソファーに腰を下ろした。
「サラ、ここにサインをして」
ヘンリーは一番に鞄から書類を一式出して、ローテーブルに置いた。サラは書類を読みもせずに、言われた通りに次々とサインをしていった。ヘンリーは安堵して微笑み、ほっと息を吐く。
「良かった。拒否されたらどうしようかと思っていたんだ」
サラは小首を傾げている。
「これで、この家は正式にきみのものだ」
ヘンリーは、優しく目を細めて告げた。そして、ちょうどティーセットを運んできた執事にも、優雅に人差し指を立てて、「マーカス、今からサラがこの屋敷の女主人だ。これまでと変わらず、よろしく頼むよ」と、やっと肩の荷が下りたようにくつろいで告げている。
「ヘンリー……」
「ずっと、きみに、居場所をあげたかったんだ。今までのような中途半端な立場じゃ、安心できなかっただろ?」
自分を見つめたままライムグリーンの瞳を揺らすサラの漆黒の髪を、そっと撫でる。
「ここがきみの家。やっと、約束を守れた」
サラはぎゅっと瞼を閉じて、ブンブンと首を振る。
「駄目よ。ここは、先祖代々のソールスベリー家の屋敷だもの」
「だからだよ、サラ。きみだけが、本当に愛されて、望まれて生まれてきた子どもなんだ。きみこそが、正統なソールスベリーの跡継ぎだよ」
ヘンリーは両手でサラの頬を挟んで、じっと瞳を覗き込んだ。
「この瞳こそ、その証だ」
ヘンリーは、サラの耳朶に小さく輝く、子供のころ自分がプレゼントしたピアスを外して、そのピアス穴に優しく触れた。
「きみに初めて会った時、すごく気になったんだ。ここには何が飾られていたんだろうって。やっと見つけて取り返してきた」
ポケットから小さな宝石ケースを出し、掌に置いてサラの前に差し出し、その蓋を開けた。その中にはライムグリーンに輝く大粒のピアスが、サラの瞳そのままの色彩を放っている。
「これが、ソールスベリーの瞳の色。父が、きみのお母さんに贈ったパイロットクリソベルだよ」
サラは震える指先で自分の耳を押さえた。――曾祖父が亡くなった後引き取られた祖父の家で、叔母に曳きむしられるように奪われた、その時の記憶が、痛みが、蘇る。
「あ――」
恐怖で見開かれた瞳に、痙攣する小さな手――。ヘンリーは慌ててサラを掻き抱いた。
「思い出さないで」
自分の胸にサラの顔を押し当て、抱え込みながら、ヘンリーはそっとサラの母の形見を、その耳に通した。
「このピアスは、きみのお母さんからきみに贈られ、ずっとここに飾られていたんだ」
顔を伏せ、涙を堪えて唇を噛むサラの顔を覗き込むように、ヘンリーは床に滑り下り、膝をついて、その手をそっと両手で握った。
「僕は、きみの過去を一つ一つ取り戻すよ。きみは、この家で生まれて、父と母に愛されて育ったんだ。それが、本当のきみが辿るはずだった過去。きみは、きみが本来受け継ぐべきものを受け取るだけでいい」
サラは顔を伏せたまま頭を横に振る。
「ヘンリーは、わたしに家をくれて、もう、ここには来なくなるの?」
握っていた手に力を込めた。
「帰ってくるよ。僕の妹の家に。きみが、こうして迎えてくれる限りね」
「このために、あんな無茶をしたの?」
「知っていたんだ?」
膝の上に載せたサラの手を握りしめるヘンリーの拳に、大粒の涙が落ちてきた。
「会社の運用とは別で、資金が欲しかったんだ。それでもこの屋敷を買い取るだけでやっとだった。それすら、金融危機でジョサイヤがここまでの打撃を受けなければ無理だった。天が助けてくれたんだ」
ヘンリーはサラの膝に頭を載せて、目を瞑った。
「ずっと、僕の傍にいてくれる?」
サラは頷いて、ヘンリーの柔らかな黄金の髪を指で掬った。ヘンリーは頭を起こし、サラの睫毛に溜まった涙をその長い指先で優しく拭う。
「アスカが、過去は変えられるんだって教えてくれたんだ。もし、辛い過去を思い出したら、そんな過去に苦しめられることがあったら、いつだって、僕を抱きしめにきてくれるって。幼かった僕を、抱きしめにきてくれるって。思い出す度に、そこには必ずアスカがいるから、一人で泣いていた幼い僕ではなくなるんだって」
もう一度ソファーに座り直し、ヘンリーはサラを抱きしめた。
「僕もきみの記憶の中の、幼いきみを抱きしめにいくよ。幼いきみが泣く度に、その涙を拭いにいく。幼かったきみがどんな場所にいようと、必ず見つけて、どんな時でも寄り添うんだ。サラ、覚えておいて。僕の一生をかけてでも、きみの失われた過去を取り戻すよ」
サラは抱きしめられたまま、頭を横に振った。
「ヘンリーには、もうわたしは必要ないの。幼い、傷ついているヘンリーを見つけたのは、わたしじゃない。……アスカだもの」
「どんなに大切に思える相手に出会えても、きみに勝る人はいないよ。きみの存在が、僕の生まれて来た意味なのだから――」
ヘンリーは、身体を離すとサラの瞳を優しく覗きこんで言った。
「ね、今年のクリスマスは本当に特別だったろう?」




