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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
174/805

  用意周到2

「飛鳥、俺、フルートが欲しいんだ」

 久しぶりに吉野から電話があった。そして珍しく頼み事をされた。それも、自分が気に入るかどうか音を出してみないと判らないから、探すだけで買わなくていい。適当なのがあったら教えてくれ、という、飛鳥には専門外の困った注文だ。


 嬉しいのか困っているのかよくわからない様子で、くるくると表情を変えている飛鳥を面白そうに眺めていたアーネストは、電話を切って苦笑している飛鳥に、「ヨシノから?」と、クスクスと笑いながら訊ねた。


「うん。フルートって、幾らくらいするんだろう? 吉野が言うには、高価なものだから中古で安くていいものを探してくれ、って。コンサートの選抜試験を受けるから、学校から借りるんじゃなくて自分のが欲しいんだって」

「クリスマスコンサートか……。もうそんな時期なんだね。探すといってもそう時間がないだろ? 良かったら、母が昔使っていたものが実家に何本かあるから、試してみるかい?」


 アーネストは膝に置いてあった読み掛けの本をパタンと閉じた。そして、あ、と思いついたように、「ヘンリーにも聞いてみようか? うちはせいぜい手慰み程度だけど、彼の家ならそこそこいいものがあると思うよ」と、うきうきと続ける。

「ありがとう、アーニー。楽器のことは全く判らないし助かるよ。吉野が僕に頼み事をするなんてめったにないからね。なんとかしてあげたかったんだ」

 飛鳥はホッとしたように表情を和らげ、アーネストにお礼を言う。


「ぜひ受かってもらいたいな。今から楽しみだよ。それにしても意外だな。ヨシノがフルートを習っていたなんて知らなかった」

 さっそく実家に電話しよう、と携帯を取り出したアーネストは、ヘーゼルの瞳を楽し気に輝かせている。


「習ってないよ、フルートなんて。こっちに来るまで触ったこともないはずだよ」

 平然とした飛鳥の返事に、アーネストの顔からすっと笑みが消える。だが頬が笑みを形作ったまま強張っている。


「でも龍笛は、年の数だけ吹いてきているからね。同じ横笛だろ? 母さんは、泣いているだけの赤ん坊の吉野の口に笛を当てて、お祖父ちゃんは、あいうえおよりも先に、指を折りながら数字を教えるような人だったから、吉野には、笛と数字は自分の言葉みたいなものなんだよ」

 彼の困惑には気づかない様子で呑気に笑う飛鳥に、アーネストは唖然とし、継いで腹を抱えて笑いだした。杜月家の英才教育は、そんな時期から始まるのかと、いつだかのヘンリーとの会話を思い出したのだ。

「それはぜひ、僕も聴かせてもらわなくちゃ! 明後日、ロンドンに来るんだろう? 実家に寄って取ってくるよ。彼にそう言っておいてくれる?」







「駄目。……これも駄目」

 吉野は、ローテーブルに並べられた十本近くあるフルートを次々と試し吹きしては、戻していった。

「全部駄目……。だけど強いて選ぶなら、これかな。これが一番マシ」


 飛鳥は、顔色を無くしハラハラしながらアーネストの方を申し訳なさそうに盗み見る。当のアーネストは、吉野の不作法を特に気にする様子もないようで、終始楽し気にその様子を見守っている。

「じゃ、それで通して吹いてみせてくれる? 課題曲は何なの?」



 と、コンコン、とノックの音に驚いて一斉に視線を向けると、開けっ放しの入り口に、ヘンリーがにこにこと笑みを湛えて立っていた。

「やぁ、間に合ったかな?」

 歩み寄り、彼は吉野の持つフルートに目をやる。

「きみの好みは、銀よりも金?」

「課題曲には、これが一番合いそうだから」

「吹いてみせて」

 アーネストの隣に腰かけると、ヘンリーは優雅に足を組んだ。




「ラ・カンパネラ……」

 一曲吹き終わったところで、ヘンリーは皮肉げにくっくと笑った。

「まったく、あの学校はどうなっているんだい? 毎年、毎年パガニーニで、技巧ばかり見せつけられるのでは、観客だってたまったものじゃないだろうに」

 屈み込んで、足元に置いた旅行鞄から長細いケースを取り出すと、「でも、それだけ吹ければ、選抜ではいい線いけると思うよ。次は、こっちで」と、吉野に渡す。

「きみの先生はランパル? 耳がいいんだね」

 ヘンリーが、もうすでにこの世にはいない有名なフルート奏者の名前を出したので、アーネストは怪訝そうな視線をちらりと流した。だが今は、その意味を説明してくれる気配は彼にはない。



 少し小首を傾げてヘンリーは吉野を見上げ、「音楽教師陣に、まだキャンベル先生はいらっしゃるのかな?」と訊ねた。吉野は黙って頷いた。そしてそのまま、ヘンリーの渡したフルートを試し吹きする。



「それなら少し変えないとね。今のままでは、どんなに上手く吹いても落とされるよ」


 吉野のフルートを途中で遮り、ヘンリーは鞄からヴァイオリンケースを取り出して開くと、愛用のヴァイオリンをその手に持って立ち上がった。広々とした場所まで移動して、軽く弓で絃を引き、音を合わせる。

「コピーが得意なら、僕を真似るといい。本番では好きに吹けばいいから、試験の時だけはね。キャンベル先生はランパルが嫌いなんだ。フランス人だからね。彼の好みは僕みたいな演奏だよ」

 すっと姿勢を正してヴァイオリンを構えると、「一度しか弾かないからね」と、奏で始めた。





「吉野、そろそろ弓道の準備をしないと……」

 ヘンリーが慌ただしく立ち去った後、どっぷりと落ち込んでいる吉野に、飛鳥はどう声をかけたものかと狼狽えるばかりで時が過ぎ、アーネストにしてもじっと押し黙ったまま、黙々と試し吹きをしたフルートの手入れをする吉野を見守りながら時を過ごしている。


 吉野はやっと顔を上げると、「これ、借りてもいいかな?」と、一本のフルートを持ち上げて見せる。

「ヘンリーのは、気に入ったんじゃないの?」

「本番はあいつのを使いたい。でも普段持ち歩いていて他の奴らに見られたら、盗まれかねないから。リッププレートに彫刻してあるこれ、あいつん家の紋章だろ?」

「ああ、確かに」

 アーネストは唇の端で笑い、小首を傾げる。

「いまだに彼は、人気者?」

「異常なほどな」

 吉野は時計を見て立ち上がると、飛鳥に向かって、「今日は泊まって明日の朝帰る。借りるやつは、そのまま置いておいて」と唐突に告げると、急いで自分のゲストルームに弓道の道具を取りに走った。



「これでも、本当に驚いているんだよ。まさかあの子が、パガニーニを吹くなんて……」

 アーネストは吉野が部屋を出ると、やっと感想を言えるとばかりに、ほっとしたように表情を緩めた。

「吹き口と運指は、龍笛とそう変わらない、って、あいつ、言ってたよ」

 そんな彼に、飛鳥の方が意外そうに首を傾げている。

「それにしても、だよ。それも、楽譜が読めないから耳で覚えたって?」

「一応、雅楽も、楽譜みたいなものはあるんだけれどね。読めないっていうよりも、基本はそうやって覚えるからだよ」

 飛鳥は、アーネストが何に驚いているのか判らないまま答え、「でも、ヘンリーの演奏はショックだったみたいだね。比べても仕方がないのに……。て、いうより、レベルが違いすぎて比べようがないのに……」と、飛鳥にしては、素直に憤慨した様子を隠そうともせずに口を尖らせている。

「覚えろ、って、言われたって、ヘンリーみたいに演奏できるわけないじゃないか。いつだって彼は、むちゃばっかり言うんだ!」

「彼は、できると思っているから言うんだよ、それがどれほどハードルが高く見えようとね。信じているんだ」


 アーネストは、飛鳥に宥めるように言い、微笑んだ。弟のこととなると、彼は随分と正直になるのだな、と自分の不肖の弟を思い出しながら、少しくすぐったいような共感を、飛鳥に感じて――。






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