地図7
医療棟の大きな窓を細やかな雨が濡らし、静かに雨粒が滴り落ちている。水滴で曇った窓の向こう側に何か気がかりでもあるのか、アレン・フェイラーはじっと切望するかのような瞳を向けていた。
「フェイラー」
びくり、と一瞬怯えたように震えて、アレンは声のする方をおずおずと振り返った。
「寮長……」
ホッとしたように笑うアレンの髪を、チャールズは優しく撫でてやる。
「全治一か月だって? 一体どうしたんだい?」
アレンは目を伏せて、「転んだんです」と消え入りそうな声で答えた。
「そう……。ずいぶん酷い転び方をしたんだね。すまなかったね。きみがこんなに酷く転ばないように、僕はもっと気をつけていなければならなかった」
アレンは驚いて、跳ねる様に顔を上げて大きく頭を振る。
チャールズはそんなアレンの否定を留めるかのように、そっとそっと頬に指先で触れる。
「顔が赤い。熱が上がってきているようだよ。先生が、今晩あたり発熱するだろうとおっしゃっていた。熱が引くまでは、ここから帰れないからね。授業が遅れる分は、寮監と相談してチューターをつけるよ。心配しないでゆっくり休むといいよ」
優しく微笑んで、チャールズはもう一度、くしゃりとアレンの頭を撫でて立ちあがった。
「あの、家族には……」
アレンは不安そうな瞳でチャールズを見上げた。
「お伝えした方がいいかい? もし、きみが望むなら街の病院に入院してもかまわないよ」
「いいえ、言わないで下さい。心配させると嫌なので」
「そう、我慢強いんだね」
「ありがとうございます、寮長」
「先生を呼んで来るよ」
だが、慈悲深い笑みを顔に張りつかせてはいても、
彼は、きみのことなんか、心配したりしないよ……。そもそも、家族だなんて思われてもいないんだから。
と、その心中でチャールズは呟いている。
「あ、そうそう、きみの両手が無事で良かった。足の打撲も、十二月には良くなっているだろうしね。クリスマスコンサートの選抜を受けるといい。ツィゴイネルワイゼンのね。出場はヴァイオリンじゃなきゃいけない、ってわけでもないんだよ」
帰りかけた足を止めて振り返ったチャールズは、不安げに見つめ返すアレンに畳みかけるように続けて言った。
「見せつけてやるといい。きみが、ヘンリー・ソールスベリーの弟だってことを。それだけできみは、もっと上手く歩けるようになるよ。……こんな風に転ぶこともなくなる」
不思議そうにセレストブルーの瞳の色を変えるアレンに、チャールズは苦笑しながらそうつけ加えた。
米国人には、嫌味も、ユーモアも通じないか――。
「おやすみ、フェイラー」
チャールズは、踵を返し病室を後にした。
人種だの、肌の色だの、そんな事より言葉が通じるかどうかの方が、ずっと大事だけれどなぁ。あの綺麗なお人形よりも、吉野の方がよほどマシな会話ができる。同じ英語圏の人間だって、会話が出来なければ何時まで経っても異邦人のままだ――。と、チャールズは医療棟を後にすると、楽し気に口笛を吹きながら細やかな霧雨の中を、寮とは反対の方向に歩いて行く。
それにしても、あいつの言っていた通りだ。才能溢れる野生馬。ただし、躾けるのも、手懐けるのも一苦労。彼が去ってから、すっかり精彩を欠いてしまったこの学校の最後の年に、こんな楽しいプレゼントが用意されていたなんて!
問題だらけの現状が、かえってチャールズの心を浮き立たせているなどと、当事者には思いもよらぬことだろう。霧雨にけぶる薄明かりに照らされる街路を軽やかに突っ切って池のある林までくると、チャールズは携帯を取り出した。液晶画面で足元を照らしながら、枯葉に埋もれる道なき道を注意深く分け入って進む。
「ヨシノ、じきに消灯時間だ、降りておいで!」
暗がりの中、携帯を高く上げて、濡れそぼり重たげに下がる紅葉を照らしだす。
「なんだよ。俺にGPSでもつけてんのか?」
「そんなものは必要ないよ。きみは単純だからね」
チャールズは上方から落ちて来る声に笑いながら答えると、更に声を高めて続けた。
「フェイラーは、全治一か月だ。でも、打撲、裂傷、軽い捻挫ですんだよ。何日かは医療棟で過ごすことになるけれどね」
しばらくの沈黙の後に、「そこどけよ、ぶつかる」と、吉野の聞きとり辛い小さな声が聞こえた。
チャールズは言われた通りに幾分か後ずさって、場所を空ける。
ザザッ、と枝葉に溜まった大粒の滴を撒き散らして、吉野が飛び降りてきた。
「さぁ、帰ろう。こんなところでいじけていたんじゃ、風邪をひくよ」
「俺は濡れているときの方が元気なんだ」
振り返りもせずに歩き出す吉野の後ろを、チャールズもおぼつかない足取りで追従する。この暗闇を平気な顔で進んで行く背中を、夜行性の動物を追うように見据えて――。
林から外灯のある遊歩道に出たところで、「反省した?」と少しからかうように声をかけた。
予想外に吉野は素直に頷いた。思わず顔をほころばせ、その頭を撫でようと伸ばした手を、チャールズは、寸前で握りしめて下ろしていた。
「僕も努力するよ。ただの欧米人から、チャールズ・フレミングっていう、いち個人だってことをきみに認めてもらえるようにね」
先程とは口調の変わったチャールズの言葉は、真面目に、真っすぐに吉野に届けられた。
「大人だな、あんた達は」
あんた達の、達は、一般的な英国人? それとも、特定の誰かが含まれているの?
チャールズは、本当はもっと突っ込んで訊きたかったが、吉野が、いつものようにとげとげとした様子ではなく、その全身を包む霧雨のように、静かで細やかな空気をまとっていたので、もう何も言わずに、肩を並べて軽やかに寮への帰路についたのだった。




