春の墓廟6
「ヘンリー!」
温室の暖かい空気の中で、いつの間にかうとうと眠っていたヘンリーは、サラの絶叫に驚いて飛び起きた。
「どうしたんだい? 僕はここにいるよ」
サラの寝ていたソファーに駆け寄って、汗で髪の毛が張り付いていたサラの額を拭ってやる。
「怖い夢でも見たの?」
サラは、ぎゅっとヘンリーにしがみつく。
「ヘンリーが、わたしが眠っている間に、行っちゃったと思ったの」
「大丈夫。まだ時間はあるよ」
ヘンリーにしがみついたまま、サラは急に泣き始めた。声を殺して、何とか我慢しようとしているのに涙が止まらない。
「ごめん……。ヘンリー、止まらないの」
「今日のサラは、子供みたいだね」
ヘンリーは優しく笑って、サラの頭を撫でてやる。
「大丈夫だよ。僕がいなくても、淋しくなんかないよ。マーカスも、メアリーもいるし。すぐにハーフタームになる」
「まだ、一カ月もある……」
「その間……。サラは、そうだな、朝のうちに庭を散歩して、たくさん朝ご飯を食べて、昼からもう一度散歩して、咲いている花のことを調べて僕に教えて。夜ご飯もたくさん食べて、それから例のサイトで、誰にも解けなかった難しい問題を解くんだ。そして誰にも解けない問題を作って出すんだよ。そうしている間に一カ月くらいすぐに経ってしまうよ」
「本当?」
サラはヘンリーのアイデアが気に入ったようで、クスクスと泣き笑いしながら頷いた。
「散歩と、たくさん食べることをちゃんと守るんだよ」
サラの食の細いことをヘンリーは前々から気にしていたが、こればかりは無理やり食べさせる訳にもいかず困っていた。
そうか、もっと身体を動かせば良かったんだ、と、ヘンリーも自分の思いつきに満足しているようだ。
「さあ、朝ごはんにしよう。もうじき、お昼だけどね」
サラは、目を瞬かせて頷いた。
この家の人たちは、みんなサラに親切だ。
執事のマーカスも、家政婦のメアリーも。何人かいる、サラは余り会うことのない庭師たちも。
でも、インドで生まれ、カーストに縛られ、育てられたサラには、使用人と慣れ合うことはできなかった。
だから、ヘンリーのいない間、サラは一人。一人きりと同じなのだ。
今まで感じたことのない孤独を、サラは感じていた。
今までは平気だったのに。
ヘンリーの休暇が終わる度に、笑って見送ってきたのに。
ヘンリーだけが、わたしを子ども扱いする。
サラは、自分がまだ幼い子どもなのだということを、ずっと忘れていた。いや、気が付かなかったというべきか。大人の中で育ってきたサラの、もっとも深い部分に住んでいた小さなサラが、初めて声を上げたのだ。
ヘンリーのいない毎日が、淋しい、と。
そして、その事実が否応もなくサラに告げる。
お前は一人ぼっちなのだ、と。
誰からも受け入れられないことが、当たり前だった。
一人でも生きていけるように、曾祖父は、サラに膨大な量の知識を授けてくれた。砂漠の砂が水を幾らでも吸い込んでいくように知識を浸み込ませていくサラの様子を喜んでくれた。
曾祖父が亡くなった後は、祖父が、電子工学とプログラミングを教えてくれた。
サラには、知識を得ることは、食事をしたり、呼吸をすることと同じように必要なことだったから、嫌だと思ったことはなかった。
一人で食事することも、一人で眠ることも、一日中一人で過ごすことも平気だった。
サラにはしなければならない仕事が沢山あったし、パソコンの設計も、プログラミングも、楽しかった。数学を禁止された事だけが、悲しかったが。
淋しいという言葉すら、知らなかった。
ヘンリーに会うまでは……。
池の傍でヘンリーに初めて会った時、まるでおとぎ話の王子さまみたいだと思った。
黄金の髪、整った目鼻立ち、光の加減で青にも紫にも見える不思議な瞳。
そして、優雅なしぐさで椅子をひいて「どうぞ」と言ってくれた。
今まで自分をそんな風に扱ってくれた人なんていなかった。どうしていいのかわからなくて、随分と変な態度を取っていたのではないかと、思い返しても恥ずかしくなる。
――サラはすごいね。
そう言って、ヘンリーはよくサラの頭を撫でてくれた。
頭を撫でられる度に、ほんわりと嬉しくなった。ヘンリーの手は、いつも優しくて温かかった。
正直、会ったこともない父や、もうこの世にはいない母は、サラにとって、遠い存在だ。
いつも、自分が本当にこの場所にいていいのかという不安が、頭にこびりついて離れない。
サラは、自分の置かれている立場を解っているつもりだ。
自分は私生児で、父には正式な妻がいる。
ヘンリーが言ってくれるような、この家の正式な家族なんかじゃない。
それでも、ヘンリーの家族でいたい……。
ヘンリーに優しくされる度に、欲張りになっていく……。
穏やかな陽だまりの中で、背筋をまっすぐに伸ばし足を組んで座っているヘンリーは、しなやかな長い指で、優雅にティーカップを持ち上げてお茶を飲んでいる。その金色の髪が、光に透けて、きらきらとまぶしい。
サラの視線に気が付いて、ヘンリーは微笑んで小首をかしげる。
「しっかり食べるんだよ、サラ」




