地図2
「ヨシノ、何の話だった? やっぱり彼のこと?」
自室に戻ってドアを開けたとたん、同室のクリス・ガストンとサウード・M・アル=マルズークが待ちくたびれたといわんばかりに、好奇心一杯の顔を吉野に向けた。当の吉野は黙ったままローブと上着を脱いで机に放り投げ、「疲れた」とそのまま倒れるようにベッドに身を投げだした。
「何だよ。みんなして、ヘンリー、ヘンリーって。面倒くさい。そんなに知りたきゃ自分で訊けよ」
そんな吉野に、壁の端に立つイスハ―クは眉をひそめ、クリスとサウードは困惑して顔を見合わせている。
くそ……。何なんだよ、この国は。どいつもこいつも。諜報大国ってのは、こんなところから始まっているのかよ。一学年の中に寮長のスパイがいるなんて。
吉野は何よりもまずウィリアムを脳裏に浮かべていた。飼い主に忠実極まりない忠犬。そんな奴がごく近くにいるはず――。
吉野は唇を噛み白い壁を睨みつけると、身体を起こして壁に背中を預けあぐらをかいた。それからやっと、訝しげに自分を見つめる二人に、「自炊しているのがバレた」と憮然とした口調で告げた。
「えっ……」
期待を裏切られ、クリスとサウードは目を見張って、ぽかんと突っ立ったまま吉野を凝視した。
「なんとか今回は見逃してもらえたけれど、部屋で作るのはもう無理だ」
吉野は怒りをあらわにして、「飢えて死ねっていうのか! あのくそったれ寮長!」と悪態を続ける。
クリスはくるくるとよく動く瑠璃色の瞳で暫く考え込んでいたが、「この部屋だから駄目なんだよ。きっと」と吉野のベッドの端に腰を下ろして、身体を捩じって顔を覗き込む。
「火を使うから――」
「電気だし」
「それでもだよ。だから、電磁調理器を使ってもいい場所があるじゃないか」
「そこはもう怒られた」
「それは、きみ一人だったからだよ。誰か上級生がいれば、」
「買収しようか?」
サウードも狭い部屋の中を駆け寄ってきて、ちょこんとベッドに腰かけた。
クリスは小首を傾げて大きな目を瞬かせる。
「誰なら協力してくれそう?」
吉野は、シックスフォーム、二十八名の上級生と、三名の国際スカラーを順繰りに思い浮かべていく。
「判らない。俺が直接知っているのは、寮長くらいだし」
「ハロルド先輩は?」
クリスは寮長と人気を二分する、寮内でも目立つ存在である先輩の名前を挙げる。
「あいつは生徒会だろ。監督生兼任の寮長とは対立しているからな。炊きつけたら協力してくれるかも知れないけれどさ、今度は俺が生徒会に利用されかねないよ。あの、くそ面倒くさい男のせいで、俺、絶対、損しているよな!」
吉野はまた苦々しそうに唇を歪める。
「ヘンリー・ソールスベリーのこと?」
羨ましそうな瞳でクリスは吉野を見つめた。
ウイスタンでの化学発明コンクールの動画はすぐに削除され、もうネット上で見られることはないのに、ここエリオットではヘンリーの友人として、杜月飛鳥の名前を知らない者はいないに等しい。
当然、その飛鳥の弟として、吉野も好奇の視線に晒されているのだ。
「しかたがないよ。彼の数少ない友人の一人なんだもの」
「だから、その話じたいが嘘くさいだろ? 友人以外、名前で呼ばないなんて。俺、初対面から名前で呼ばれていたぞ」
「それは、きみが特別ってことだよ」
クリスは羨ましそうにちょっと微笑んだ。
「取りあえず考えてみるよ。食堂のあの犬の餌ていどじゃ、俺、体力が持たないんだ」
吉野は大きくため息をついて言った。クリスも、サウードも同情するような神妙な顔をして頷いた。この寮の食事だけでは、とても足りないのはクリスたちだって同じなのだ。その上吉野は同学年の中でも体格に恵まれている。水泳部に所属している事もあり、食べる量も尋常ではない。充分に栄養を満たすことは、彼らに取って切実な問題なのだ。
クリスかと思ったのにな……。
あの当惑した、残念そうな反応に嘘はなかった。クリスはとっさに感情を取り繕えるような、そんな器用な奴ではない。と、すると考えられるのは――。と、サウードとイスハ―クが自室に戻った後、吉野はぼんやりと、ちらちらと窓枠にかかるイチョウの葉を眺めながら一学年のキングススカラーの面々を脳裏に浮かべる。
俺の飯を食っているのは、五人。毎回バレるのが早すぎる。でも、チクっているのが一学年とばかりは限らないか――。
「腹減った。何か食ってくる」
日が落ち切った中庭から視線を戻し、夕食に向かうために制服に着替えているクリスに一言告げた。棚から小さいリュックを下ろしてごそごそとあれこれ詰め込み、吉野自身も上着を着てローブを羽織る。
「僕も行っていい?」
「駄目、外に出るから」
「どこに行くの?」
「池」
クリスは残念そうに窓の外に目をやった。
「最近そこがお気に入りだね」
「寮監に何か言われたら適当に誤魔化して。お前の分、取り分けておいてやるからさ」
ニヤリと笑い、吉野はローブの下にリュックを隠して部屋を出た。
ちぇ、先客がいる。
遊歩道が終わり、外灯の明かりが届かなくなる鬱蒼とした木立の合間の暗がりに、誰かが蹲っていた。泣いているのか、その背中が小刻みに揺れている。
吉野は面倒くさそうに、「おい、お前、じきに夕食時間が終わるぞ」と声をかけた。びくりと身を震わせて振り向いたのは、アレン・フェイラーだ。薄闇の中でもすぐにそれと判る際立った美貌が、泣き濡れた面のせいもあるのか、震える一輪の花を思わせた。
アレンは黙ったまま顔を伏せ、足早にその場を立ち去った。ザッ、ザッ、と落ち葉を踏み散らす音だけを寂しげに響かせて。
こんなところまで泣きにきているのか――。兄貴のお気に入りの場所に来たところで、お前の兄貴はいないんだぞ。
薄っすらと月光の差し込む暗がりの中を、吉野は足元を探るように落ち葉を踏みしめ、さらに林の奥まで分け入っていく。池の傍まで来ると、以前組んでおいた石の間に、昼間集めておいた枯れ枝を重ねて焚火を組んだ。
十分に火が熾るとリュックから飯盒を取り出し、米と水を入れ火にかける。石の端には網を置いて、ホイルに包んだ野菜類を焼いた。
パチパチと木のはぜる音を聞いていると、激しく立ち上ってゆく炎の先端の金色の揺らめきの中に、なぜか先程のアレンの後ろ姿を思い出した。
暗闇をぼやりと照らす外灯の灯りが、金の髪をキラキラと輝かせていた。
同じ顔なのに、あんなに似ていないのも辛いだろうな――。
焚火の上へ手を伸ばしかけ、「危ね……」とローブの袖をたくし上げた。少し後ずさってから、吉野は改めてローブと上着を脱ぎ捨てた。




