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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
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  新作発表会7

 九日間のハーフタームを終え、吉野はエリオットに戻って行った。飛鳥も新歓行事をほぼ消化し終え、落ち着いた日常を取り戻しつつある。


「ヨシノがいないと、途端につまらなくなったねぇ」

 連日のイベント幹事でのくたびれた様子も見せず、アーネストはモーニングティーを淹れ、飛鳥の前に置く。


「ヨシノには散々勝ち逃げされたからね。きみのカレッジの工学部連中は、次は数学科に助っ人を頼むって息巻いていたよ。次って言ったって、クリスマス休暇はまだまだ先なのにねぇ」

 カウンターテーブルで朝食を取っている飛鳥に暖かい視線を向けてはいるものの、アーネストの口許は、さも可笑しそうに、思い出し笑いでクスクスと喉を鳴らしている。



 笑い事ではない。吉野にとっては、怒涛のハーフターム休暇だった。連日の新歓イベントで、酔いつぶれて帰って来る飛鳥に豪を煮やした吉野は、とうとうパブで行われていたゲーム大会に飛鳥の名前で代理出場し、ブラック・ジャックとポーカーで賭けに出たのだ。文字通りの賭けゲームだ。



「もう傑作だったよ。きみがあの時点で既に酔っていて覚えてないのが、本当に残念!」




 ――あんたたち、まさかテキサスホールデムのルール、知らない、って事はないよな? 天下のケンブリッジ生だもんな。本当は、理解出来ていない、なんて冗談でも言わないよな?


 余りに勝ちが続く吉野が、訝し気に同じテーブルにつく連中を眺め、大真面目な顔をして尋ねたのだ。


 対戦中の相手だけではなく、パイントグラス片手に勝負の行方を見守っていた連中までもが、しーんと静まり返った。やがて、その沈黙を破り、誰かが携帯電話を取り出し友人を呼び出した。その一声を機に、我も、我もとカードに強い仲間を呼びつけ、焚きつける電話の声、声、声で大騒ぎになった。

 だが、こうして呼び出されてテーブルにつく顔ぶれは次々と変わって行ったが、勝負の流れは最後まで変わらなかった。吉野は一人勝ちして初めの要求通りに、敗者に飛鳥の代わりに酒を飲ませる権利を勝ち取ったのだ。


 それ以来、フォーマルディナーの席でも、サークルの勧誘イベントでも、飛鳥がグラスを手に持つ度に、傍にいる誰かがそのグラスを掻っさらって、吉野とのゲームに負けた別の誰かに渡し、そこに注がれたワインだの、ビールだのを飲み干させた。


 当の飛鳥は、その敗者が誰なのかもよく解っていない。俺の借金、あといくつ? と、聞かれても訳が解らない。なんとなく一緒にいる同じカレッジの誰かが、長いリストを出してチェックしてくれているのを、身を縮めて眺めているしかなかった――。





「今年の新歓イベントでの一番の話題は、きみとヨシノだよ」


 名前も知らない相手からそんなふうに声を掛けられ、ほとんど意識の無い間に顔と名前が知れ渡っていることにどぎまぎしながら、飛鳥は授業に出席している。酒がからまない席ではそんな事はおくびにも出さずに接してくれる学生仲間に感謝しながらの、目まぐるしく忙しい学校生活の始まりだった。


「ごめん、吉野はやることがめちゃくちゃで……」


 飛鳥は苦笑して、誰かれなく同じように告げていたセリフを、ここでもまた繰り返すしかない。アーネストの方も優雅に笑って、そのほとんどの連中が口にしたのと同じ言葉を、言い返した。


「次は負けないよ。ケンブリッジの威信にかけて――」





「さあて、上の二人にも朝食を持って行くかな」

 アーネストは新しくお茶を淹れ、小鍋のポリッジを器に移すとトレーに置いた。

「二人とも徹夜なの?」

 飛鳥は心配そうに眉をひそめる。



 昨夜遅くに帰って来たヘンリーは、ロレンツォと一緒だった。飛鳥が寝る前に声を掛けた時も、厳しい面持ちで二人してパソコンを睨みつけるように見ながら電話で指示を出しているようだった。


「多分ね」

 アーネストも軽くため息を吐く。

「僕も行く前に挨拶してくるよ」

 飛鳥はハイチェアーから下りて自分の食器を食洗器に入れ、アーネストと連れ立ってキッチンを後にする。



 ヘンリーの部屋に入るなり、幾つものパソコンモニターが、目に飛び込んで来た。飛鳥は息を飲んでその場に釘づけになっていた。ガクガクと脚が震えていた。大きく息を吸い込み、やっとのことで、声を振り絞った。


「何、これ?」


 ヘンリーは疲れ切った顔で、目だけはやたらギラギラと強い光を湛えながら、乱れた髪を掻き上げて呟いた。


「心配ないよ」


 飛鳥はふらふらとモニター画面の前まで来て、そこに映し出されたチャートの垂直に落ちて光る青いローソク足を、驚愕の面持ちで見つめる。


「ポンド円、百五十円――」


 ヘンリーが輸出為替レートを固定化してくれた時は、百九十六円だった――。まさか、ここまで落ちるなんて――。あり得ない……。


 飛鳥は悲痛な顔をして、がっくりと膝を崩していた。あり得ない事が起こり得るのが為替市場というものだ。身に染みて知っているはずだった――。


「こんなのは、フェアじゃないよ……」と、愕然と呟いていた。



「おめでとう、ヘンリー!」

 だが、そんな飛鳥を尻目にアーネストはにっこりと顔をほころばせ、ロレンツォは手を叩いて、「紅茶より、シャンパンだろ?」と叫んでいる。


「このゲームも、いよいよ終盤に入ったよ」


 ヘンリーは、にっと笑みをアーネストに向け、継いで飛鳥の両腕を支えて立たせると、「心配しないで。コズモスの為替部門は、ポンドを大量に売っているんだ」と、こつんと飛鳥の肩に、自分の額を当ててゆっくりと深呼吸した。きつく掴まれた肩から、彼の張り詰めた想いが伝わって来る。そして、安堵も――。


 目を見開いたまま唖然と立ち尽くす飛鳥を、ヘンリーは腕を回して軽く抱き締めて、その耳許に囁いた。


「それに、ポンド安はコズモスの輸出には有利だよ」

「じゃあ……」

「『杜月』は、何も心配しなくていい。日本との為替差損なんて、大した量ではないのだから」

 飛鳥の髪をくしゃっと撫でて面を上げたヘンリーは、いつものように優美に微笑んでいる。




「さぁ、朝食を食べて、最後のカードを切りにいこうか」


 ぎこちなく立ち尽くしたままの飛鳥の背を叩き、ヘンリーは大きく伸びをする。顔を見合わたロレンツォも、アーネストも、満足そうに、不敵に笑い合っていた――。






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