表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
160/805

  新作発表会6

「吉野、コーヒーのおかわりをくれる? うんと濃いので」

 飛鳥は話し終えたヘンリーが出掛けてかなり経ってから、吉野のいるキッチンに顔を出した。大理石のカウンターテーブル上のテキストを脇へ押しやり、吉野はさっそく用意にかかる。


「話、聞いてた?」

 カウンターを挟んでハイチェアーに腰かけ、だらしなく突っ伏した飛鳥は、キッチン側にいる吉野にぼそぼそと喋りかけた。

「うん。――何がそんなに問題なんだ?」


 飛鳥は暫くの間ぼんやりと黙りこくったまま、コンロの熱で音を立てる小鍋と、そこから立ち上る水蒸気をじっと眺めていた。だが、吉野が熱源を切ってコーヒーを淹れ終えると、深くため息をついて話し始めた。


「『杜月』のガラスは、原価が一枚五十万かかるんだ、日本円で。一枚で投影ボックス三台分作れる。だから、一台分のガラス原価が十六~七万円。コズモス製のパーツを入れたら、軽く二十万超えだ。コストが掛かり過ぎているんだよ。それに時間も。一カ月で製造できるのは、せいぜい二十枚だもの」


 ぼんやりとすぐ傍に置かれたコーヒーの湯気を見つめ、「ヘンリーは、これをスマートフォンと変わらない値段で売り出したいんだよ。その為には、コストダウンと機械生産化は、必須なんだ……」くぐもった声で、顔を隠すように下を向いて呟き続ける。


「それなのに、いまだに目途すらついていない」

「発売できる見込みすら立っていないのに、見本市で発表するっていうこと?」

 弟の冷静な問い掛けに、飛鳥は俯いたまま、さらりとした髪の毛を揺らして頷いた。


「見切り発車もいいところだな」

 吉野もさすがに驚いて、唇の端で嗤った。

「急ぎ過ぎだよ、ヘンリーは。ただ、ガン・エデン社を叩きたいだけに思えるよ」

「そうかな?」

 吉野もハイチェアーに腰かけ直すと、つっぷしたままの飛鳥の頭をわさわさと撫でて慰めてやりながら、自分も反対の手でカップを持つと、ごくりとコーヒーを飲み下した。


「あいつの親父さん、かなり危ないんだろ?」

「え?」


 予期せぬ言葉に驚いて、飛鳥はぴくりと肩を震わせて半身を起こし、今初めて知ったとばかりに、吉野に問い質すような視線を送る。


「ネットで見たんだけれどな。あいつの親父さん、病気療養中もCEOであり続けて、病室から戦略決定を行ってきたのが、いよいよCEOを降りて療養に専念するって。それで、後継者は息子のヘンリーになるか、現COOの実弟のジョージになるかで役員内で揉めているらしいよ。金融危機プラスその内輪のごたごたで、今、親父さんの会社の株が暴落してるんだ」


 飛鳥は唖然としたまま目を見開いて、「じゃ、ヘンリーがあんなに焦っているのって、」と、またもや全身から力が抜けたように、カウンターに頬杖をついた。

「僕は何も知らなかった」

「ネット上の噂だからな、どこまで本当かは判らないよ」

 吉野はコーヒーカップを寄せて、「冷めるよ」と飛鳥の目の前に置く。




 吉野自身の耳で聞いたヘンリーとロレンツォの会話は、もっと複雑で入り組んだ話だった。だが、飛鳥にはそんな事は関係ない。あえて吉野が口にする事でもない。それよりも、自分の事ばかりにかまけて、ヘンリーがプライベートに抱える問題に感心を示すことさえしなかった自分を責め、落ち込む飛鳥をどうやって浮上させようかと、吉野は思考を巡らせていた。飛鳥にしろ、全く知らなかった訳ではないのだ。「父親の会社」が大変らしい、という飛鳥自身の情報から、吉野はその内情を知ったのだから。知らなかった事が、落ち度というはずがないのに、この兄はそれを自分の至らなさだ、とすぐに自分の問題にしてしまう。



「でも俺、飛鳥とあいつが話しているのを見て、安心したよ」

 ふと思い出した風を装って、吉野は屈託のない笑みを浮かべた。

「ちゃんと友達なんだな」

「どういう意味?」

 飛鳥はどんよりとした視線を上げて、吉野の目を見つめ返した。


「あいつ、前に飛鳥のこと、フレンドじゃなくて、大切な親友(ソウルメイト)って、言ってたんだ。その時は何とも思わなかったけど、飛鳥と話しているあいつを見ていたら、ああ、そうなんだな、て。ずっと、なんで飛鳥とあいつが友達なのか納得出来なかったのに、すとーんと腑に落ちたよ」


 飛鳥は黙ったまま目を見開いて、じっと吉野の言葉に聞き入っている。


「ソウルメイトって、互いの魂に触れ合うほどの仲って意味なんだろ? やっぱりそんな風に見えたよ。飛鳥が落ち込むのは、あいつが無理をしているのが解っているからだろ? あいつは、あんなに爽やかそうに笑っているのに、飛鳥にはちゃんとあいつの魂が視えているんだ、って思えたんだよ。あいつの方も、飛鳥が必死に頑張っているのが解っているから、あんなに優しく笑えるんだな、って。あの男、見かけよりずっとロマンチストなんだな」


 飛鳥はぎゅっと眉間に皺を寄せて目を伏せ、消え入りそうな声で訊いた。


「僕は、少しは彼の役に立てているのかな?」

「あいつは、飛鳥には嘘をつかないよ」


 吉野はもう一度、この頼りない兄の頭をわしわしと撫でてやった。



 感受性が強すぎるんだ、飛鳥は。だからあんな奴に引っかかる。あいつは、飛鳥には誠実だよ、きっと。飛鳥の才能があいつの役に立っている間は――。でも、あいつは飛鳥のことを知らない、まだまだ、まるで知らないんだ。



 ぐっと、そんな想いを押し殺しながら。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ