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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
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  新作発表会3

「ほら飛鳥、タイが違う。今日はカレッジタイにするって、昨夜、言っていただろ?」

 朝から落ち着かず、どこか上の空の飛鳥のネクタイを結び直しながら、吉野は呆れた調子で言った。

「そんなんで、ちゃんと迷わずにカレッジに着けるのかよ?」

「ウィルが迎えに来てくれるって」と、言っている間もなくブザーが鳴った。




「はーい」

 飛鳥は結び掛けのネクタイを自分で首許まで引き上げ、大きな声で返事をしながら、玄関に走る。余りの忙しなさに吉野までが振り回されている。



「ウィル、ヘンリーは? いっしょじゃないの? 彼のカレッジも今日が入学式だろ?」

 扉を開けるなりきょろきょろと辺りを見回して、がっかりした様子でウィリアムを見上げた飛鳥に、ウィリアムは申し訳なさそうに言い、「直接カレッジに向かわれました。ご心配かけて申し訳ありません」といつもと変わらない笑顔を向ける。

「そう、それならいいんだ」

 飛鳥は、ほっとしたような笑みを返した。


「ネクタイが、」

 ウィリアムは飛鳥のネクタイを最後まできっちりと締め、襟元を調える。

「飛鳥、ローブ」

 玄関先まで届けに来た吉野を目にした途端、ウィリアムはクスリと笑い、次いで穏やかに声を掛けた。

「久しぶりだね、ヨシノ。学校には慣れた?」

「なんとか」

 吉野は軽く頭を下げて挨拶した。

「入学式の後は歓迎ディナーがあるから、帰りは遅くなるよ」


 吉野が軽く頷くと、「じゃ、いってきます」と飛鳥は、やはりどことなくぼんやりとしたまま玄関を踏み出した。


「飛鳥、待って。靴下が違う! ドレスコード、黒指定だろ!」

 慌てて自分の足元の白い靴下を見た飛鳥は、あっ、と声を上げてバタバタと階段を駆け上がって自室に戻る。吉野はため息をつきながら、「このところ、あいつ変だから、気を付けてやってくれる?」と、なんとも心もとないふうに呟いた。


「何かあったの?」

 ウィリアムは表情を硬くして、飛鳥の消えた階段の上から吉野へと視線を移した。

「ずっとプログラミングしている。触っていない時でも、考え続けているんだ。こういう時に表に出すと危ないんだよ。見えていても、周りを見ていないからさ、転んだり、ぶつかったり……」


 ウィリアムは他に気がかりでもあったのか、吉野の返事に安堵し、納得した様子で頷いた。




 また、バタバタと飛鳥が階段を駆け下りて来た。

「ごめん。お待たせ。今度こそ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 吉野の見送る中、飛鳥はウィリアムの自転車の後ろに乗っかり、勢い良く片手を振った。



「全く……」


 あんなんで、本当に大丈夫なのかよ……。


 吉野は一抹の不安を感じながらも苦笑して屋内に戻ると、シルバーで統一された広々としたリビングのソファーに寝ころがった。

 アーネストも、これから二週間は新歓行事でほとんどいない、と言っていた。飛鳥も大学が始まった。


 今の間にしなきゃいけないことは――。


 ぼんやりと考えながら天井のダウンライトを見るでもなく見ていると、やたらと眠気が襲ってきた。


 明け方近くまで起きていた飛鳥につき合っていたせいだ。飛鳥は、大丈夫かな? 入学式で眠りこけたりしないだろうな――。


 





「余計なことはしないでくれ」

 聞き覚えのある、けれど記憶にあるものよりずっと冷ややかで威圧感のある声に驚いて、吉野はびくりと目を覚ましていた。



「何が、余計な事だ? ジョサイア貿易の株価がここまで落ちて、破綻の噂にヘッジファンドの買収の噂まで出回っているっていうのに、何を、手を(こまね)いて見ているんだ? お前らしくもない。うちが出資すれば一気に信用を取り戻せるじゃないか!」

 癖の強い、張りのある低音の声が、イライラした様子で早口で反論している。

「冗談じゃないよ。やっとここまで持ってこられたっていうのに」

「余計なことだって言うなら、理由を教えろ。もうお前の秘密主義にはうんざりだ!」


 声の主は、より一層、口調を強めて声を張り上げた。


「話したら手を引いてくれるかい?」

 その問いに相手は頷いたのか、そのまま抑揚のないヘンリーの声が続く。


「ジョサイアの筆頭株主は、きみも知っての通り僕の父だ。次いで、母、その次が祖父だ。でもね、母と祖父の株式を合わせると、父の持ち分を超えるんだよ。実質的には、父の会社はフェイラーに牛耳られている。やっと、それを買い戻せるチャンスなんだよ」

「お前が買い取るってことか?」

「コズモスが」

「子会社が親会社を買収するって?!」

「もう子会社じゃないよ。知っているだろう? 祖父のグループも今回の金融危機で相当傷んでいる。今を逃すわけにはいかないんだ。納得できたかい? 解ったら、もう邪魔しないでくれ」


 扉越しでさえ凍りつきそうな、冷たい声が漏れ聞こえてくる。


 暫くの沈黙の後、先ほどまでとは打って変わった、静かな声が尋ねている。

「俺にできることは?」

「そうだね……。もし祖父と話がつく前にヘッジファンドが介入してきたら、阻止してくれるかい?」





「やぁ、ヨシノ。来ていたんだね」

 ドアの開く音が聞こえると同時に、反射的に目を瞑って寝たふりをする吉野の肩を、ローブを着て正装したヘンリーは、とんとん、と叩いて優しく声を掛けた。


 不承不承に吉野は目を開け、身体を起こす。


「紹介するよ、彼はロレンツォ・ルベリーニ。ウイスタンの同期生なんだ」


 立ち上がって、吉野は声の主をまじまじと見つめた。ヘンリーと似たような恰好をした長身の青年が、彼と並んでいた。


「アスカの弟で、ヨシノ・トヅキ。今はエリオットに通っている」

「よろしく、ヨシノ」


 ロレンツォは先程までの会話からは想像もつかない、屈託のない笑顔を見えて右手を差し出した。

「兄からお噂は兼ねがねお聞きしています。兄の在学中は、大変お世話になったそうで、感謝しています」と、その手を握り返し笑顔で挨拶を交わした後、吉野はふっと目を伏せた。ロレンツォ・ルベリーニは、飛鳥の言っていた通りの印象だ。明るくて、朗らか、漆黒の髪と瞳の、ダ・ヴィンチの描く洗礼者ヨハネ――。


 だがそれなら、そのヨハネを顎であしらうこいつは何者なんだ?


 こうして出逢う度に謎が深まっていく相手を前にして、吉野はどう対処すべきか判断がつかなかったのだ。







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