入学6
エリオットに向かう車の中で、吉野は憮然としたまま黙り込んで車窓を流れる景色を眺めていた。
どんよりとした空模様は相変わらずだ。アーネストに言わせると、すっきりと晴れている方が珍しいらしい。
鬱陶しい……。
重厚で威圧感のある建物に、追い打ちを掛けるように重苦しいこの空。
こんなところで暮らしていると、あんなふうに何重にも雲に覆われたような性格に育つのか?
朝方のヘンリーとの会話を思い出し、吉野は悔しさから僅かに頬を引きつらせていた。
吉野の発した問は、結局、曖昧なまま煙に巻かれてしまったのだ。ヘンリーは、デヴィッドの身辺に危険が予測されたから、飛鳥や親父にも警護をつけていただけだと言ったが、それは嘘だ。
デヴィッドのボディーガードは、武器の携帯ができない民間警備員だった。だから自分を囮にして、さっさとスナイパーをウィルやアルに捕まえさせた。デヴィッドは、日本警察も、英国の警察、あるいは情報部も介入させなかった。英国外にいる自分につてを通して便宜を図ることで、父親が政治的な借りを作る事を嫌がったからだ。
それなのに飛鳥と親父は、MI6が守っていると言ったじゃないか!
吉野は心中で思いきり悪態をついていた。ヘンリーも父や飛鳥と同じなのだ。大丈夫だ、心配ない、と話をはぐらかし強制的に打ち切った。
俺はいつだって蚊帳の外だ……。
悔しさが無力感に溶ける。吉野は、この英国の空に浸食されたかのようなぐったりとした脱力を感じ、深くため息を吐いていた。
「もうじき着くよ。エリオット内に入った」
アーネストの声に気を取り直し、今一度意識を車窓に向けると、いつの間にか、ロンドンと比べるとずっとこぢんまりとした可愛らしい街並みが広がっていた。吉野は、「おとぎ話に出て来る街みたいだな」と、それまでの重苦しい思考を切り替えようと呟いた。
「そうだよ。エリオットはまさにおとぎの国だよ。本物の王子様もいれば、お姫様に魔法使いもいる。それに悪役の盗賊に、それを退治する騎士もね」
「お姫様? 男子校なのに?」
「聞かなかったかな? デイヴは豆の上のお姫様、って呼ばれていたって」
「ああ、聞きました」
「演劇や仮装の機会が多いからね。一度女役に当たったら、即、学校のマドンナ扱いさ」
アーネストは口の先で皮肉な笑みを浮かべている。
「演劇……。なんだ、高慢で我儘だから、豆の上のお姫様なんだと思っていました」
吉野の返答にアーネストは堪えきれずに吹き出した。
「これはいい! あいつに言ってやりたいよ!」
デヴィッドの兄である自分に対して、正直な歯に衣着せぬ物言いをする――。それが許されていたのであろう、弟とこの素朴な少年の関係に安堵と、感謝を感じていた。アーネストはひとしきり笑い、「さて、きみはどんな役どころが回って来るかな? 今から楽しみだよ」と吉野を眺め目を細める。
「役どころって? 俺は演劇のクラスを取る気はありませんよ」
「実生活でさ。ちなみにヘンリーは、在学中から“伝説”だったよ。中途退学した後も、今ですらエリオットの“英雄”さ」
アーネストは夢見るような表情で微笑んでいる。そんな輝かしい思い出があるのか、と吉野は想像もつかないその過去に思いを馳せる。
だがそれも束の間、彼は思い出したようにふっと表情を曇らせて、「そうだ、一つだけ大事な忠告があったんだ。きみの同期のキングススカラーにヘンリーの弟がいる。彼とはできるだけ関わらない事。外見はヘンリーによく似ているけれどね、彼の身内だと思わない方がいい。いいかい?」と吉野の肩に手を置いて、念を押すように首を傾げた。
吉野は、怪訝そうにその瞳を見返した。けれど、何も問うことなく頷いた。
「綺麗だね。ボイドさん、もう来てくれたんだ?」
エリオット校まで吉野を送り、ロンドンに戻って来たアーネストは、居間に入るなり目に飛び込んできた素朴なフラワー・アレンジメントに一瞬目を見張り立ち止まった。
ローテーブルに置かれた花瓶に、一見無造作で統一性のない雑多な種類の花々が不思議な調和を醸し出している。昨夜、吉野が空港で受け取っていた花々だろう。
「いや違うよ、これは彼が生けたんだ」
ヘンリーは手にしていた紅茶のカップを置くと、楽しそうな笑みを浮かべた。
「本当に多才な子だね。彼の使った部屋に置いてあったんだ。飛鳥は生活することそのものが苦手だったのに、彼は違うみたいだね」
アーネストは感心しきりに頷きながら、ローテーブルに身を乗り出して、携帯を取り出しカシャ、カシャと写真を撮っている。
「あの子なら、エリオットでも難なくやっていけるよ。それにしてもこんな花瓶、ここにあったっけ? 随分とシンプルなデザインだね」
そのまま腕を伸ばして、しなやかな指で茎が透けて見えるぽってりとしたガラスの表面をなぞり、ちょっと怪訝そうに首を傾げる。
「それ、彼の寝室に置いてあったウォーターピッチャーだよ。――それから、メアリーは来ないよ。だから僕は、自分で淹れたまずい紅茶を飲んでいるってわけさ」
新しいカップに紅茶を注ぎ一口飲むなり顔を顰めたアーネストに、ヘンリーは懇願の視線と甘えるような微笑を送っていた。
アーネストはいかにも呆れたふうにため息をつき、ぶつぶつと文句を呟きながら立ち上がった。
「OK。淹れ直してくるよ。本当にきみは人使いが荒いな、帰ってきたばかりだって言うのに……」
「アーニー、」
居間を出掛かったところで、アーネストを明るい声が呼び止める。
「僕はそれを飲んだら、マーシュコートに帰るよ」
「今から? 今ロンドンを出たらルベリーニが煩いだろうに……」
「またすぐ戻ってくるさ。サラが退屈しているんだ」
アーネストは諦めたように腕を広げて、大げさに、もう一度ため息を吐いた。
「OK、ヘンリー。お姫様によろしく」




