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  春の墓廟4

 塀の外に出ると、来たときとはすっかり様子が変わり、辺りは柔らかい朝の木漏れ日に明るく照らされている。


 サラは、澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「また、頑張って歩かなくっちゃ」

「ゆっくり、休みながら行こう。行きは、ちょっと急ぎすぎたね」

「夜明け前が、一番綺麗な時間なのね。ありがとう、ヘンリー。ここへ連れて来てくれて」




 二人はのんびりと来た道を下って行く。

「やっぱり、サラはもっと運動した方がいいね。いつも、部屋に閉じこもりっきりだろう? マーカスも、メアリーも心配していたよ」


 ヘンリーは、サラの手をひいてゆっくりと進んだ。

 それでも、時々サラは、草に足を取られてつんのめったり、転びそうになったりする。

 行きは、気が急いでいて気付かなかった。

 サラは、必死にヘンリーの後をついて来ていたのだろうに……。


 僕はいつも、サラが小さい女の子だということを、忘れてしまう。


 賢いサラ。高等数学の専門書だの、『ネイチャー』のバックナンバーを欲しがるサラ。

 いつもパソコンの前で、ヘンリーにはよく判らない何かに夢中になっているサラ。      

 ちょっと歩いただけで、頬をバラ色に染め息を弾ませているサラや、小さな子供のように泣くサラを、ヘンリーは知らなかった。

 そういえば、サラがここに来てからもう二年と九カ月になるのに、いつも部屋の中か、せいぜい庭の東屋でお茶を飲んだくらいの記憶しかない。





「次のハーフタームには、いっしょにどこかへでかけようか?」

「本当?」


 サラは瞳を輝かせて嬉しそうな声を上げた。


「約束する。どこがいいかな?」

「博物館に行ってみたい」

「ロンドン……」


 ヘンリーは困ったように呟いた。


「ロンドンもいいけれど……。そうだ、ピクニックに行かないかい? お弁当を持って。サラはもっと外にでなくちゃ。ロンドンは、夏休みにしよう。ゆっくり時間をかけて、見るものが沢山あるからね。博物館だけじゃ、サラは満足できないよ」

 ヘンリーは片目をつぶってサラに微笑む。

「ヘンリー!」

 サラは、ヘンリーに飛びつくようにして抱きついた。


「ヘンリーありがとう!」


「だからサラはそれまでに運動して、体力を付けて、しっかり歩けるようにするんだよ」

ヘンリーは、サラの頭を優しく撫でる。

「わたし、毎日お庭をお散歩してたくさん歩けるようになる」


 突然、サラは歩みを止めた。驚いたように眼前を見つめている。


 いつの間にか林は終わり、ネモフィラの花畑まで戻って来ていた。

 薄暗がりの中で見たネモフィラと、朝日に照らされ目の前に広がるネモフィラは、確かに同じ花なのに、異なる色彩を放っている。


 どうして気付かなかったんだろう。


 サラは呆然として立ち尽くし、動けなくなっていた。


「サラ、どうしたんだい? 疲れたの?」

 ヘンリーはしゃがみこんで、下からサラを覗き込む。

「サラ、ごめんよ。僕はいつもきみが八歳の女の子だということを忘れてしまうんだ」

 ヘンリーはサラに背中を向ける。


「背中におぶさって。ここまで頑張って歩いたから、ご褒美だよ」


 平気、そう言おうとしたのに、言葉にならなかった。

 ヘンリーに言われて初めて、サラは自分が随分と疲れていることに気が付いた。手足が急速に重たく感じられた。サラは素直に甘えて、その背中におぶさった。


 ヘンリーは、ゆっくりと立ち上がって歩き出す。





「ねぇ、ヘンリー、わたしここのお花が一番好き」


 サラはヘンリーの背中で揺られながら、囁くように言った。


「そうだね。サラに似合っているよ。小さくて、可憐で、愛らしい」

「暗い時には判らなかったの。このお花、青い空の下だと、セレスト・ブルーなのね。神様のお住まいになる、空の色。ヘンリーの瞳の色と同じ。ヘンリーが寮に戻って、淋しくてどうしようもない時は、ここに来るの」


 サラの声は、眠気をはらんで、とぎれとぎれになっていた。


「ヘンリー、大好き」

「僕もサラが好きだよ」



 サラが、この花が好きだと言うのなら、僕も、好きになれるかも知れない。

 この花も、この瞳の色も。今まで一度だって、好きだと思えたことは無かったけれど。



 ヘンリーは、サラの、父と同じライム・グリーンの瞳が羨ましかった。

 そして、母に似た自分の瞳が大嫌いだった。


 ここ数日、ヘンリーの心を締め悩ませていた問題がまたぞろ頭に浮かんでくる。


 来月、母が、米国から帰って来る。

 冬休みに米国の祖父の家で会った時は、そんなそぶりさえ無かったのに。

 どうせ、ロンドンのシティー・ハウスにちょっと寄るだけだ。

 ロンドンから四時間もかかる、こんな田舎まで来るはずがない。

 もともと母は、ここが嫌いなのだから。


 ずっと自分にそう言い聞かせていても、ヘンリーの不安は拭えなかった。


 母がサラを見たら、酷いことをするのではないか、インドに追い返すのではないのか、気が気ではなかったのだ。



           挿絵(By みてみん)



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