入学3
「ヨシノの乗る飛行機は、台風で五時間遅れでやっと出航したって。二十一時半着予定だったから、ヒースローに着く頃には夜中を回っちゃうね」
アーネストはデヴィッドから届いたばかりのメールを確認すると、パソコンに向かうヘンリーの背中に声を掛けた。
「そう、彼とゆっくり話せる時間を取りたかったのに、慌ただしくなってしまうね」
ヘンリーは作業を中断して立ち上がると、アーネストのいるソファーへと移動した。
白く塗られた木製の窓枠から差し込む朝日が、寝不足の目にひと際眩しく痛い。
「仕事は終えたの?」
アーネストは気遣うように小首を傾げる。
「まだ。でも少し休むよ。僕もお茶を貰える? ……空港でよほど暇だったのかな。アスカから大量のメールが来ていたよ。それも中身は僕には訳のわからないレベルの設計図の解説。サラに転送しておいたけれどね」
ヘンリーの愚痴ともつかないその口調に笑いながら相槌をうち、アーネストは淹れたばかりの紅茶をカップに注ぐ。
「僕の方にもデイヴから。時系列で実況中継みたいだよ」
笑いながらメールを読み上げた。
一時間前には空港に到着して待機。欠航、遅延が決まってごった返す空港で、「ヨシノが退屈しきってぐずっていた子どものために、笛を吹いてあげたんだって」と、楽し気にヘンリーをちらと見上げる。
「笛?」
「龍笛っていう、日本の伝統的な和楽器らしいよ。周りはみんなイライラして疲れていたから、うるさくして怒られるかと思ったら、出だしの一音で水を打ったように静まり返って、終わった時には大喝采、結局、ターミナルホールで、急遽、演奏会になったって。ヨシノだけじゃなくて、たまたま居合わせた楽器を持っていた音楽家とか、手品だとか、何か一芸ある人たちが飛び入りで参加して、飛行機が飛ぶまで二時間以上そうやって乗り切ったそうだよ。ほら、動画を見るかい? アスカも演奏しているよ」
アーネストは空港内の様子を映した画面を向けて見せる。
吉野と並んで演奏している飛鳥の姿をヘンリーは少し驚いたように眺め、スマートフォンを受け取ると、そのまま目を離すことなくじっと見つめた。
「アスカが、演奏するなんて知らなかった」
「何言っているんだよ。スカラーに楽器演奏の試験は必修だろ? 僕はエリオットのサマースクールで聞かせて貰ったよ」
「そうか、まだまだ知らないことの方が多いんだな……。それにしても、いい音だね。他のも見てもいい?」
アーネストが頷くと、ヘンリーは遡って幾つかの動画を再生し、感心したようにー画面から流れてくる音に耳を傾けた。
「デイヴの話だと、アスカの弟はかなり面白そうな子だね。あのデイヴが気に入るくらいだもの。きみはもう彼に会っているんだったね」
曲が終わり、やっと顔を上げたヘンリーは、思い出したかのようにカップに手を伸ばし口に運んだ。アーネストの質問は耳に入っていないのかと思いきや、かなり間を置いてから返事があった。
だが、ヘンリーは「ん? うん。面白い子だったよ。これからが楽しみだ。『杜月』の跡継ぎだけのことはあるよ」と、どこか心ここに在らずといった感じでぼんやりとしている。
「跡継ぎ? アスカじゃなくて?」
アーネストは意外そうに目を見張る。
「アスカはうちが貰うよ。それに彼、経営には向いていないだろ? トヅキ社長は初めからそのつもりだよ。アスカの希望でもある。ヨシノはそのために留学してくるんだよ。エリオットの名前は、国際社会でそれなりの名刺代わりになるからね」
「ふーん……。デイヴから聞いているのとは大分違うね。ヨシノは知らないんじゃないの?」
「そうかも知れないね。彼は自分の意思のはっきりした子だそうだよ。ウィルもかなり手古摺らされているみたいだった。それで、デイヴは何て?」
「ヨシノは、アスカの世話をするために英国に来るんだって」
ヘンリーは思わず吹き出して、頭を反らせ声を立てて笑った。
「いい子だね」
米国から戻ってきたばかりの時には疲れ切っていたヘンリーも、翌日にはすっかりいつも通りの様子で早速コズモスの業務に戻っている。大学が始まるまでにできる限りの事を進めておかないとね、と、昼夜を惜しんで働いている。
ヘンリーには、仕事よりも、親族と過ごすことの方がよほど負担らしい……。解っていたこととはいえ、朝の陽だまりの中で優雅に紅茶を飲み、久しぶりに穏やかな笑顔を見せるその横顔を眺めていると、どこか痛々しく感じすにはいられない。寄る辺ない彼のその未来を憂えて、アーネストは小さくため息を漏らした。
「そうそう、きみに紹介して貰ったデイヴの元家庭教師、予想以上に有能だそうだよ。スミスさんも、ウィルも褒めていたよ」
「アルバート・マクレガー?」
「そう、できすぎなくらいに有能だって」
ヘンリーは、口元に微笑を浮かべたまま、真っすぐにアーネストを見つめた。
アーネストは呆れたようにため息を吐く。
「きみ、彼の身元調査をしていなかったのかい?」
「勿論したさ。チャールズの従兄弟だろ?」
「それから? したのに気付かなかったの?」
ヘンリーは眉根を寄せて首を傾げる。
「名前からも見た目からも判らないからかもしれないけれど、アルはイタリア系だよ。母方の血筋がね。つまり、ルベリーニの庇護下にいる。知っていて雇ったんだと思っていたよ。一言告げるべきだったかな?」
「僕はルベリーニのスパイを、そうとは気付かずに雇ったってことかい?」
「他に適任がいなかったんだ。日本語に堪能であれだけの経歴、かつ、あの条件を呑んでくれるなんて短期間では見つけられなかった。それにスパイとは限らないよ」
アーネストは申し訳なさそうな笑みを浮かべ、「アルはきみの崇拝者なんだ」と付け足した。そして「それにあの黒い貴族のね」、と。
「きみがルベリーニを配下に置いている限り、アルはきみを裏切らないよ。どうとでも試してみるといい。ルベリーニの一族は優秀だよ。その忠誠心もね」
「僕は、僕に跪くような下卑た奴は信用できない。その一族もね」
冷たく言い放つヘンリーを正面から見据えながら、アーネストは、困ったように肩をすくめた。この頑なさは子どもの頃のままだ。まだまだ彼は幼い。そんな無邪気な幼さを覗かせる――。
「きみは、きみがヘンリー・ソールスベリーだっていう自覚がなさすぎるよ」




