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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第四章
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入学

 ノックの音に、一人掛けソファーに腰かけていたアーネストは、スマートフォンをチェックする手を止め、顔を上げて人差し指を唇に当てた。

 入り口で立ち止まったロレンツォは、眉を上げて正面のソファーに目をやる。


 光沢のある灰色のスーツのままで、ヘンリーがセピア色の三人掛けソファーに身を横たえて、静かに寝息を立てている。

 ロレンツォは呆れ顔でため息をつき顎をくいっと上げてベランダを示すと、隣室を抜けて屋外に回った。

 アーネストも立ち上がり、そっとベランダに抜けるフランス窓を開け、部屋を出た。




「おい、やっと戻って来たと思ったら、あいつ、まだ寝ているのか?」

 ガーデンセットの黒籐椅子に腰かけて、ロレンツォは呆れたように両手を広げる。

「まぁ、そう言わないで。連日のパーティーで疲れているんだよ」

 アーネストは宥めるように穏やかな笑みを浮かべて、優雅に腰を下ろし足を組んだ。

「お茶はどう? それともコーヒー?」


 のんびりと訊ねるアーネストに冷たい視線を向けて首を振って断り、ロレンツォは、単刀直入に要件を訊ねた。

「それで成果はあったのか? 全く、こんな時期にパーティーだのお披露目だの、合衆国の富豪連中はのんきなものだな」

「こんな時期だろうとどんな時期だろうと、関係ないよ。十八歳だからね。大人の仲間入りさ」

「社交界デビューってわけか。それもロンドンじゃなく、ニューヨークで」

「それも仕方ないね。向こうのお祖父様のご意向じゃね。お父様の今の状況では、ヘンリーには後ろ盾がいないに等しいわけだもの」



 回復の見込みのほとんどないヘンリーの父親のことを思い、アーネストは唇を噛んだ。


 せめてインド支社のヘンリーの叔父様が戻ってきて下さったら、米国の親族に、こうも好き勝手な真似を許すこともなかったはずなのに……、と。ヘンリーの在学中はほったらかしで、学校の父母会も、行事もいっさい無視してきた米国の親族が、成人となった途端に手の平を返してすり寄ってきている。

 ヘンリーも、ヘンリーだった。あんなに毛嫌いしていたのに請われるままに米国に行き、自分のためのお披露目パーティーを受け入れて、出席している。

 一体何を考えているのか……。アーネストは、ヘンリーの胸中を推し量ることの出来ない自分自身に失望し、彼に理不尽な苛立ちさえ感じていた。

 だが、人を呼びつけておいて、米国から帰って来るなりソファーに横になり、糸が切れたように眠りに落ちた彼を見て、この現実の下で、彼がどれほど神経をすり減らし耐えに耐えてきたか、という事実に察しがついたのだ。




「後ろ盾がない、って?」

 ロレンツォの険を含んだ黒い瞳を気に留める様子もなく、「英国社会は金では動かすことが出来ない面が多々あるからね。ヘンリーも、もっとラザフォード家(うち)を頼ってくれるといいのに……」アーネストは、憂いを含んだ笑みを浮かべてこれ見よがしにため息を吐いた。


 明るい午後の日差しの下でヘーゼルの瞳が黄金色がかり、光に透けるブルネットの巻き毛がちょうど宗教画の天使の後輪のように輝いて、高みから見下ろしているような威圧感を与える。




 この厭味ったらしい英国人め!


 胸中では忌々(いまいま)しく毒づきながらも、さすがに五年間のパブリックスクールでの生活で、ロレンツォも性に合わない英国流の会話にいちいち目くじらを立て、反応を口に出すこともなくなった。


 ヘンリーに比べれば、ずっとマシだ……。


 と、無意味に自分を宥めている。だがそれは、英国流にどう返してやろうか、と表現方法のみ郷に従うために過ぎない。




「やぁ、ルベリーニ、久しぶりだね。アーニーも変わったことはなかったかい? 」

 やっと目を覚ましたヘンリーの明るい声が背後に響いた。


 どこか白々した空気を漂わせている二人のことなど気にするでもなく腰かけると、起き抜けの気怠そうな仕草で、すっと手の甲をロレンツォに向ける。ロレンツォは、誇らしげにその指先に接吻を落とした。


「アーニー、誰かいるかな? お茶を頼みたい」

「まだ着いていないんだ。そろそろ来るはずなのだけど。僕が淹れてくるよ」


 アーネストは立ち上がり、優しくヘンリーの髪を撫でてキッチンへ向かった。




「向こうできみのお父様にお会いしたよ」

 しばらくしてヘンリーはおもむろに口を開いた。まだ疲れが抜けきれないのか、椅子に深く凭れてのんびりとした口調だった。

「いや凄まじいね、きみの一族は。とても面白い話を聴かせて貰ったよ」



 もともと祖父の意向とは別に、金融危機の実態調査のためにニューヨークへ向かったのだ。ヘンリーは祖父の開いてくれたパーティーで、米国の投資家連中から十分すぎる程の情報を仕入れてきた。その最たるものが、ルベリーニ一族に関するものだったのだ。


「きみの家、渦中のRB投資銀行から相当数のモゲージ債を売りつけられたそうじゃないか? おかしいと思っていたんだよ。どこも似たり寄ったりの負債を抱えているのに、どうしてここだけが槍玉に挙げられているのか。空売り規制も早々に掛けられて、そりゃあ、倒産でもしてもらわないことには割に合わないよね? CDSは十分に買えたかい? グラスフィールド社の時には随分待たされたからねぇ」


 ヘンリーは背もたれに腕を掛け、斜めに腰かけて枕にするように頭をもたげた。そしてロレンツォに向き合ってクスクスと笑った。


「もう全部処分しようと思っていたんだけれどね、きみのお父様に待つように言われたよ。必ず、破綻させるからってね」



 RB投資銀行が危ない、倒産の恐れがあるという噂が、夏頃からまことしやかに囁かれていた。何のことはない、ルベリーニによって故意にばらまかれた噂だったのだ。根拠のない噂も、今のような特殊な状況下では、いつの間にか実体を持ち猛威を振るう。

 おまけに、それだけでは済まさないところが正にルベリーニだった。今回の金融危機のダメージの少ないアジア圏の銀行を使って、融資するだの、買収するだのと、救済の手を差し伸べているように見せかけて、のらりくらりと時間を引き伸ばし、本当に手遅れになるのを待つ程の念の入れようだ。


 ここが倒れれば、確実に、英国にも飛び火する――。


 これは、アーネストには聴かせる訳にはいかない内容でもあった。


 だが――。



「きみと組んで良かったよ、ロレンツォ」


 ヘンリーはロレンツォが、今までに見たこともない優しい顔をして微笑んでいた。初めてファースト・ネームを呼ばれたことで、ロレンツォは驚愕のあまり、この気怠げな彼の面をまじまじと見つめ返すだけだった。


 いくら見つめたところで、この表情も、言葉の意味も読めない。その心も、真意も底が知れない。ただ翻弄されるがままの自覚だけはあるロレンツォは、やがて自嘲的に微笑んで、頷いた。







モーゲージ債……住宅を購入する際に利用する住宅ローン(=モーゲージ)を担保として発行された債券。

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