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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  秋の準備4

「ヨシノは~? また、いないの~?」

「今日は送別会で、帰りは遅いそうです」


 朝、というよりも昼に近い時間に起きて来たデヴィッドに、台所で紅茶を淹れていたビル・ベネットはいつも通りの不愛想で応えた。

「もう何日も、まともにヨシノの顔見てないよ~」

 テーブルにベタっと突っ伏している膨れっ面のデヴィッドの前に、香り高く湯気の立つカップを置いて、「七時の朝食に起きてくれば会えますよ」と、ビルは今日もちくちくと嫌味を言う。


「ダージリンかぁ……」

 デヴィッドは眉をしかめて上目使いにビルを見る。

「レディグレイの気分なんだけど」

「朝食は何になさいますか?」

 ビルは、慣れた口調で受け流している。

「ご飯と漬物」

 不機嫌なまま頭を起こして、仕方なくデヴィッドはカップを手に取り口に運ぶ。



 パリパリときゅうりの浅漬けを齧りながら、「漬物ヘンリーはどうしているかなぁ……」とぼんやり呟いたかと思うと、今度は顔をしかめてビルに向かって文句を言う。

「アルの作ったのって、どれもこれも味が薄すぎるんだよ。そう思わない?」

「そうですか?」

「ヨシノのだし巻き玉子が食べたい」


 ビルは黙って冷蔵庫からラップを掛けた一人分の長皿を取り出すと、デヴィッドの前にコトリと置いた。デヴィッドは、ぎろりとビルを睨み唇を尖らせる。


「あるんなら、もったいぶらずに、くれればいいのに」

「起きて来ないので、食べてしまおうかと思っていました」

「お前、最近ひどくない?」

「アーネスト様から坊ちゃんを甘やかさないように言われていますから」


 デヴィッドはチッと舌打ちすると、もうそれ以上ビルに当たるのは止めて、「午後から出かけるから」とだけ言い、黙々と食事に専念することにした。これ以上駄々を捏ねて、兄に告げ口されてはかなわない。デヴィッドにしても引き際は心得ている。





「何か用ですか?」

 ガラリと玄関の引き戸を開けた。屋内にいた時から聞こえていた甲高い声の主、白いブラウスと吉野の制服と同じ色の灰色のスカートを身に着けた三人組の女の子たちに、デヴィッドは笑って声を掛ける。

「ヨシノの友達ですか?」


 きゃあきゃあと賑やかな声を上げている内の一人が、「杜月くん、いますか?」と、真っ赤になって尋ねる。

「朝から出掛けていますよ」



 ――どうする? 

 ――急がなきゃ。


 三人で頭を突き合わせ、ひそひそ声でひとしきり相談してから、「すみません、じゃ、送別会の会場の方に行ってみます」同じ子が長い髪を揺らし、ぺこりと頭を下げる。背中を向けて歩き出したその子たちを、デヴィッドは慌てて呼び止めた。


「そこにヨシノがいるの? 僕も行っていい? 急ぎの用があるんだ」





「こいつ、信じらんねぇ! 普通、中坊の集まりに来るかよ?」

 カラオケボックスでのクラスの送別会が終われば、次は弓道部の送別会だ。その繋ぎの時間をファーストフード店で潰しながら、さすがの吉野も怒り心頭で、未だに目の前に座っているデヴィッドに噛みつくように文句を言った。


「別にいいじゃん、ヨシノの友達でしょ?」

「友達っていうか、クラスメイトだし」

「楽しかったよ~」



 そりゃ、お前は楽しいだろ! 女子にちやほやされて、王子様扱いされてりゃ! こっちは、なんやかんやでキリキリしているっていうのに……。


 と、毒づく吉野の内心になど、デヴィッドはどこ吹く風で気にする様子もない。


「ヨシノは、こんなに友達が沢山いるのに、何でイギリスにくるの~」

「は? なんだよ、今更」

「今まで訊いたことなかったし~。さっきだって可愛い子に告白されていたでしょ? なのになんで? ヨシノは、イギリスに憧れも、思い入れも、ないでしょ? 留学するにしたって、きみの年齢じゃ早過ぎない?」

 デヴィッドは、吉野の仏頂面などお構いなしにのんびりと訊ねた。


「人の事、ほっとけよ」

 照れたような子どもらしい表情で、吉野はぷいっとウィンドウの外へ視線を移した。だが次に向き直った時には、いつもの切れ長の目に険を含んだ攻撃的な視線で、真っ直ぐにデヴィッドを見据えていた。



「俺がいないと、飛鳥が飢え死にする」

「ウイスタン、無事に卒業したじゃん。ヘンリーがいるから大丈夫だよ」

 吉野の返答を、デヴィッドは呆れたように鼻先で嗤った。


「ぶどう糖、何箱送ったと思っているんだ?」

「え?」


 吉野は頬杖を付いたままデヴィッドを睨み付けていた。


「飛鳥は祖父ちゃんが死んでから、どっか壊れているんだ。何か作っている時は、ほとんど固形物を食べられなくなる。俺がいない間は、取りあえず水飲んで、ぶどう糖と塩、舐めとけって言ってあるんだよ」


 わずかにひきつったデヴィッドの表情の変化に、「ほら、知らなかっただろ?」と、吉野は皮肉な口調で嗤った。


「もう脅される心配はないんだし、本当は飛鳥をイギリスになんかやりたくないよ。でも、ケンブリッジは祖父ちゃんの夢だったからな。祖父ちゃんの夢を叶えるのが、飛鳥の夢なんだ。死んだ祖父ちゃんの為だからってさ、飛鳥に死なれちゃ困るだろ? 父さんだって、その辺よく判っているから俺を行かせるんだよ」


 吉野はいつになく冷たい口調でそう言い切った。


「俺、もう行くよ。ついて来るなよ。部活の送別会が済んだら、友達んち寄ってくから帰りは遅くなる。アルには言ってあるから。あんまりフラフラせずに早めに帰れよ」


 立ち上がる吉野に目線だけ上げて、デヴィッドは小さく手を振った。吉野も軽く頷くと、もう振り返ることもなく店を出た。




 忙しない雑踏の中に紛れて行くその背中をウインドウ越しに見送りながら、「ヘンリー、アスカちゃんはきみが思っている以上に手が掛かるみたいだよ」とデヴィッドは、憂いを帯びた笑みを漏らしていた。






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