秋の準備2
勝てない――。
今のままじゃ、絶対に勝てない。
吉野は射場内の下座に正坐して、目を伏せたままぼんやりと物思いに耽っていた。
ブウン、ブウン――。
低く唸るような弦を弾く鋭い音に、はっと顔を上げる。師範が最も強い弓を持ち、指で軽く弦を弾いている。自分の為の清めの儀式に、吉野は上体を倒して深く頭を下げた。
師範は、「顔を上げて。よく見ていなさい」と、威厳に溢れた静かな立ち姿で弓を引き、模範を示す。
「吉野くん」
「はい」
吉野は立ち上がり、作法通りに射位に立ち、矢を番える。的に向かって弓を大きく引き絞り、引き放つ。
「いい射だ。坐っている時は、心、此処に有らずだったのにな」
苦笑いして、師範は吉野の頭をぽん、ぽんと叩いた。
「弓は心を映す鏡だ。いつも不思議に思っていたんだがね。きみは、どんな心で的と向き合っているんだね?」
「…………」
吉野はその問に正直に答えていいものかと躊躇し、口籠った。だが間を置かず真っ直ぐに師範の目を見つめ直し、はっきりと答えた。
「殺さなければ、殺される覚悟で射ています。でも、ここに立っている間だけは、何故、殺さなければならないのかを考えないでいられる。矢を放つ瞬間だけでも、全てを忘れることを許されることに感謝して射ています」
「弓は、きみの救いになっているのかね?」
吉野が頷くと、師範は微笑んでわしわしとその頭を撫でてやった。
「うわっ、ヨシノがかっこよく見えるよ! いいなぁ、着物!」
間の抜けた声に振り返ると、デヴィッドが入り口を塞ぐように立ち止まっている。
吉野は慌てて師範に一礼すると、急ぎ足でその場違いな珍客に歩み寄り、乱暴に腕を掴んで射場を出た。
「何やっているんだよ、そんなところで! 邪魔だ!」
「僕も入門しようかなぁ~て。家にいてもつまんないし」
「ふざけるなよ! 直に学校だって始まるだろ? 我慢しろよ! ビル、なんとか言ってくれよ!」
デヴィッドの後ろで控えているビル・ベネットは、やはりいつものように肩を竦めるだけだ。吉野はその様子にため息を吐き、改めてデヴィッドにまじまじと険しい視線を向けた。自然と眉間に深い皺が刻まれている。
こいつに、我慢なんてできるのか? と、訝しさから途切れることのない自問自答が続いていた。
なんたって、何十枚も重ねた布団の下に置かれた豆粒に文句をつけるような、豆の上のお姫様だぞ……。
テレビや食洗器が届いた翌日には、高級炊飯器に冷蔵庫、ゲーム機、毎日のように次から次へと物が増えていった。今日なんて部活から戻ると、玄関にお取り寄せスィーツが山と積まれていた。玄関にだ! こいつの部屋の中は足の踏み場もない有り様で、もう置き場所がないから――。
何が英国人は、質素、堅実がモットーだ、飛鳥の嘘つきめ!
心の中で悪し様に罵りながら、吉野は即決していた。
「判った。師範に紹介してやる。ここで待っていろ」
射場に戻ろうとすると、「杜月くん」と、自分と同じく道場に通う同級生の女の子たちに呼び止められる。
「杜月くんの知り合い?」
恥ずかしそうな仕草でチラチラとデヴィッドを盗み見しながら、その中の一人が小声で吉野の胴着の袖を引っ張っている。
うわ、面倒くせ……。
吉野はちっと舌打ちし、「うん、まぁ」と曖昧に答えて、急ぎ師範を呼びに射場に入った。
「日本の女の子、可愛いね~」
道場からの帰り道、デヴィッドは上機嫌で吉野に笑いかけていた。
「頼むから問題起こすなよ。師範にもお前がだらしないマネしたら、俺のことは気にせずに容赦なく叩きだして下さい、って言ってあるからな」
「さっきも、それ、聞いたよ~」
吉野は不機嫌そうな顔で空を見上げ、ため息を吐く。
「月が綺麗だな」
何ともなしに呟いた吉野を、デヴィッドは驚いた顔でじっと見つめた。どことなくぎこちなさの加わった彼の様子に、吉野は気づきもしない。
暫くぽつぽつと歩いた後、デヴィッドは戸惑いを吐き出すように訊ねた。
「ヨシノは僕が好きなの?」
「はぁ? いきなり何言い出してんだ」
「月が綺麗だね、て」
「綺麗だろ、普通に」
「月が綺麗だね、って、I love you. て意味なんでしょ?」
吉野は眉を顰め、思い切り唇をへの字に曲げて立ち止まった。
「何、気色悪いこと言ってんだよ。どこの馬鹿だよ、そんな嘘、お前に教えたの」
「ソーセキ・ナツメ」
夏目漱石か……。名前くらいは知っているけど、読んだことはないな……。
吉野は困って頭を悩ませていた。
「それは、あれだろ、文学的表現ってやつだろ。今の日本人が、月が綺麗だって言ったら、そのままその通りの意味だよ」
月が何だってそんな翻訳になるのか訳の解らないまま、吉野はそんな言葉でお茶を濁した。だがデヴィッドは、ほっとしたように相好を崩している。
「なんだ、そうなんだ。残念~。ちょっとドキドキしたのにぃ」
「お前な、その顔でそんなこと平気で言うなよ。誤解されるぞ。日本人は怖いんだぞ。お前みたいなの、気を持たせるような曖昧な態度を取っていると、すぐスト―カーに追い回されるようになるぞ」
吉野は至って真面目な顔をしてそう言うと歩き出し、またぞろ月を眺めて、ふと思い出した節を口ずさむ。
「星の数ほど 男はあれど 月と見るのは ぬしばかり」
「それ、何て歌?」
「知らない。近所の爺ちゃんが口ずさんでいた都都逸」
「ドドイツって?」
「よく知らない。自分で調べろよ。そのために日本に来たんだろ?」
吉野はもう横にいるデヴィッドのことなど忘れたように、物思いに耽りながら、微かに鈴虫の鳴く夜道に足を進めていた。




