秋の準備
都内のホテルの一室に主人を訪ねたウィリアムは、一連の報告の後、取り立てたことでもないように装いながら、当面の一番の悩みを切り出した。
「ヨシノにお会いになられたそうですね」
「ああ、お前の言う通りだったよ。早速宣戦布告された。気に入ったよ。いいね、あの目は。さすがに兄弟だ。アスカによく似ている」
ヘンリーは無礼だと知っていながら自分から手を差し出し、睨み付けてきた吉野の瞳を思い出して楽しそうに微笑んだ。その反応をウィリアムは意外に思いながら、やはりこの方らしい、と納得せずにもいられない。
「でも、デイヴとは上手くやっているんだって?」
「ええ、彼が警戒しているのは、外国人というよりも、我々、コズモスの様です」
「年の割には頭が回るようだね」
ヘンリーはますます楽しそうに笑う。久しぶりに、心から笑いくつろいでいる主人に、ウィリアムはもどかしさよりも、安堵の方を先立って感じていた。
復讐――。
飛鳥が口にした言葉がふと脳裏をかすめていた。インドでのサラの誘拐事件のことを示唆していたのならば、グラスフィールド社の倒産で復讐を成し遂げたと言えるはずだ。ヘンリーの、今のこの様子にも納得できるというものだ。だが、ウィリアムは終わりを見届けるためではなく、これからのためにここにいるのだ。今の問題から目を逸らす訳にはいかない。
「アスカも、です。クラッキングに気付いていました。あなたに危険な真似はしないで欲しい、と、そうおっしゃっていました」
「危険? 危険なことなんてないさ。あの会社は、自社がクラッキングされたなんて絶対に認めないからね。認めて公表してくれたら、僕としては余程助かるのだけどね。未だに社員を一人一人締め上げてリークした犯人を捜しているよ」
ヘンリーは皮肉な口調であざ笑うかのように言い、一人掛けのソファーに深く身を持たせ掛けて、眼下に広がる夜景を見下ろした。ウィリアムは彼の選択した沈黙を尊重し、押し黙っていた。
暫くの間、ヘンリーはその宝石箱をひっくり返したようなキラキラと輝く灯の海をぼんやりと眺めていた。だがやがて、小さくため息を吐いて呟いた。
「つまらない景色」
そして、それまでの楽し気な調子をがらりと変えて、「どうして彼は、ああも自分自身を信じられるんだろうね?」、と真面目な顔をしてウィリアムに向き直る。
「彼、とは?」
「リック・カールトン。ガン・エデン社のCEOだよ」
リック・カールトンは、弱冠二十一歳でガン・エデン社を立ち上げ、この二十数年の間に全米トップのIT機器メーカーにまで成長させた、敏腕経営者として知られている。だがその華やかな業績とは裏腹に、怖ろしく自己中心的で強引、傲慢、残忍ともいえるやり口でも有名だった。
「僕は彼には、ある種の親近感を覚えているんだ。自分自身には何の才能もないのに、他人の才能で称賛を受けているところなんて、僕とそっくりだからね。尤も、僕はそれを当然のことのように振る舞う、彼ほどの厚顔さは持ち合わせてはいないけれどね」
「あなたとカールトンの共通点は、経営者として優れているという一点のみです。そしてその自負こそが彼の自信の源ではないでしょうか?」
主人の自嘲的な口ぶりに、ウィリアムは怒りを抑えて静かな口調で応じた。ヘンリーとカールトンは対極だ。上に立つ者として、細やかに情を掛け指導してきた彼と、自分に従う者にこそ搾取としか言えないような厳しさで、その才能を搾り取ってきたカールトンを、似ていると比べることからしておこがましい。
なぜこの方は、いつもこうも頑なに自らを認めようとなさらないのか? どんなにサラお嬢様が優れていらしても、全ての矢面に立って面倒ごとを処理していらしたのは、あなたではないですか――。
ウィリアムは内心、臍を嚙む。だが口に出して言ったところで、ますますヘンリーの機嫌を損なうだけだということも、もう充分に承知していた。
「経営者として、か……。経営者として優秀なのは、スミスさんだよ。僕は運が良かっただけだ。この未曾有の金融危機のお陰で、百年に一度のチャンスを手に入れた。せめて、この一度きりの機会を上手く生かさないとね」
しなやかな指でこめかみを押さえ、気怠そうに緩慢に、ヘンリーはまた、窓の外に視線を移した。
「ヨシノのことは気にしなくていいよ。ああいう目をした子は決して身内を裏切らない。アスカさえ、押さえておけばいいんだ」
ウィリアムの抱える葛藤を、ヘンリーは言わずとも理解していたようだ。その上に重ねる言葉もなく、ウイリアムは頷いた。
唐突に立ち上がると、ヘンリーはデスクから大判の封筒を取り上げ、ウィリアムに差し出した。
「これをアスカに。『杜月』を案内してもらう予定だったんだけれどね、明日、朝の便でニューヨークへ行くことになったんだ。彼に貰った試作設計図をやり直してもらわなきゃいけない。その変更箇所が記載してある」
封筒を受け取り、ウィリアムはその場を辞した。
翌朝、渡された書類に添えられていたメモを読んだ飛鳥は、憮然と肩を落としていた。
「そう、残念だな。『杜月』を見て欲しかったのに」
そのまま書類に目を通し、更に顔を曇らせて嘆息する。
「厳しいなぁ……」
「飛鳥、どうした?」
久しぶりに制服を着ている吉野は、手にしていたマグカップをテーブルに置き、眉根を寄せて兄を見つめた。
「せっかく吉野に計算して貰ったのに、無駄になったよ。画面サイズが十五インチから八インチに変更になったって」
「俺、九時には帰ってくるから」
「大丈夫だよ。心配いらない。工場に行って佐藤さんに相談してくるよ。吉野は心配しないで頑張っておいで。大会まで、後三日だろう?」
飛鳥は、じっと黙ったまま見返す吉野に、「お前の晴れ舞台、楽しみにしているんだ」と、畳みかけるように言い、書類を隠すように封筒に仕舞い込む。
「それに今回はかなりの猶予をもらっているから、吉野の手を借りなくても間に合うよ」
「猶予? いつまで?」
「新学期。『ケンブリッジで会おう』、て」
飛鳥はにっこりとほほ笑むと、「ほら、早くしなよ。遅れるよ」と、吉野を急かし、「ウィルも今日は学校でしょ? デイヴを起こして予定を伝えておくよ」と、忙しなく台所を後にする。
吉野は苛立たし気にちらりとウィリアムを見、けれど黙ったまま席を立ち、暖簾を叩き付けるように払って台所を出て行った。
一人残ったウィリアムは背もたれに身を預け、杜月家の古びたこげ茶色の天井に顔を向けて大きく息を吐いていた。




