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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  台風到来9

 台所のテーブルの上に日付ごとに分けたレシートを並べ、吉野は品目ごとの合計金額を暗算で、どんどん家計簿に記入していた。アルバート・マクレガーはその様子を目を丸くして眺めながら、「計算、速いですねぇ」と、驚嘆の声を上げる。


「まぁな。それより、やっぱ、すごい食費が増えてる。ウィリアムが来たときはこんなにいかなかったぞ。アル達で、一人頭、飛鳥の三倍は食っている計算になる。なんとかしろよ」

 吉野は、特にお前、と言わんばかりにデヴィッドに冷たい視線を向ける。

「だって、ヨシノのご飯美味しいし~。でもトヅキ家、ベジタリアンじゃん。野菜ばっかりじゃお腹すくよ~。だから食べ過ぎちゃうんだよ~」

「お盆だからだよ。精進料理なの。それも今日で終わり。明日から、俺、部活あるしな、家事は全部アルに任せるからな。肉でも、魚でも好きにしろよ」

「了解」

「え~! ヨシノのご飯がいい!」


 アルバートはにこやかに微笑み、デヴィッドは口を尖らせて抗議する。


「吉野、準備できたよ」

 玄関から飛鳥が大きな声で呼んでいる。


「今行く」

 吉野はテーブルの上に散らばったレシートをざっくりとひとまとめにしてノートに挟んだ。まだブツブツと抗議の声を上げているデヴィッドなど馬耳東風の扱いで、台所を後にした。




 居間に行き、精霊棚から灯を蝋燭に移し、みんなの待つ門口に急ぐ。素焼きの炮烙の上で、折って積み重ねられたおがらに火を移す。勢いよく燃え始めたその炎が消えない内に、新しい蝋燭に火を移し提灯に入れる。パチパチと音を立てて燃え上がる炎を、親子三人でじっと見守った。


 間もなく燃え尽きたおがらを感慨深く見つめていた飛鳥は、顔をあげて父に声を掛けた。

「父さん、ほら、またいで」

 杜月氏は玄関から外に向けて三回焙烙をまたぐ。飛鳥、吉野とそれに続いた。



 少し離れて不思議そうに見守っているデヴィッドたちに、「無病息災の意味があるんだ」と、飛鳥は、はにかんだように説明する。

「それじゃ、送ってくるね」

 提灯を手にした杜月氏を先頭に三人は歩き出した。


 その背中を見送り、デヴィッドはしゃがみこんで燃え尽きた灰の残る焙烙に視線を落とした。そして、「神秘的だねぇ」と、呟いた。

「先祖と伝統に対する深い敬意が感じられますね」

 マクレガーも微笑んで、感慨深そうに頷いている。





 カナカナカナ……。 


 ひぐらしが鳴き、風がさわさわと梢を揺らす中、ゆっくりと墓地に続く傾斜を上って行った。


 じっと俯いて自分の足元に視線を落として歩いていた飛鳥は、「先客がいる」という吉野の声に、訝し気に顔を上げた。



 夕日を浴びて、黄金の髪が燃えるように輝いている。黒いスーツを着た長身のその男は、白い百合の花束を抱えて杜月家の墓前にすっと佇んでいた。


 飛鳥はいきなり駆け出すと、息を弾ませて「どうしたの?」と、勢いよくその男の腕を掴んでいた。


「少し痩せた? 顔色も良くないね」

 その男は、飛鳥の乱れた長い前髪を上品な長い指で掻き上げて、逆に訊ねている。

「ヘンリー……」

 飛鳥は不安そうに震える瞳で、じっと彼のセレストブルーの瞳を見つめていた。彼は目を細めて優しく微笑み、ちょっと小首を傾げると、飛鳥を安心させるように告げた。

「お墓参りに。この時期はそういう仕来りなのだろう?」

 飛鳥はあっけにとられ、「ありがとう、ヘンリー」と、苦笑して礼を言う。



「久しぶりだね。向こうでは世話になったね。何かあったのかい?」

 追いついてきた父も緊張した面持ちで挨拶を交わしている。

「ええ。まずは墓前にご報告をと思い、こちらに伺いました」

 ヘンリーは涼やかな笑顔で答え、吉野に顔を向けると、「これは、ここに置かせて貰ってもいいのかな?」と、手にしていた花束を胸元まで持ち上げる。


「貸して」

 吉野がそれを受け取った。

「初めまして」と、すぐに花束を持ち替え、彼の珍しい青紫の瞳を真っすぐに見据えて右手を差し出す。


「初めまして。きみがヨシノだね?」

 ヘンリーは穏やかな笑みを絶やさずに、しっかりとその手を握り返した。敬意と愛情を込めて。




 吉野は少し離れて地面に花束を広げて置き、後ろポケットからアーミーナイフを出して手早く百合の茎を切って長さを調節し、墓前の供花と差し替えた。




 ヘンリーは杜月家を見習って、目を瞑って同じように静かに手を合わせている。

 身じろぎもせずに佇むその背中を見つめていると、飛鳥の胸中にはまたも不安が沸き上がって来る。


 やがて、優雅な所作でゆっくりと振り返ると、ヘンリーは杜月氏に、次いで飛鳥に視線を向けて、「グラスフィールド社は、昨日付けで破産申請しました。CEOのイアン・マクミラーは特別背任罪で刑事告発されます。これで本当に終わったのです。こんなことくらいで亡くなられた方の無念が晴れるとは思いませんが、少しは安心されるのではないでしょうか?」と、優しく、穏やかな声音で告げた。




「お祖父ちゃん――」


 飛鳥は吉野の肩に顔を埋めて奥歯を噛み締め、その背を震わせてぐっと涙を堪えた。杜月氏はそんな息子の背をそっと撫で、「ありがとう」と、深くヘンリーに頭を下げている。


 吉野は静かにゆっくりと、父の手にしていた提灯の灯を消した。




「トヅキさん、コズモスはグラスフィールド社の欧州工場とスイスの研究施設を買い取りました。これでいつでも機械生産体制に入れます」

 杜月氏は、判っていた、という面持ちで頷くと、ヘンリーと肩を並べて歩き出す。遅れて、飛鳥と吉野も後に続いた。





 カナカナカナ……。


 物哀しいひぐらしの声を背に浴びながら、茜色に染まるじゃり道を、わざとゆっくりと下った。



 この数日の間に、涼しい風が吹くようになった――。

 心なし、濃緑の枝から漏れてくる西日も柔らかくなった気がする。


 飛鳥は息を吐き、顔を上げて、前方を歩く父とヘンリーの背中に目を遣った。



「あんな綺麗な男が本当にいるんだな」

 そんな兄の視線に気づいたのか、吉野がぽつりと呟いた。

「彼は奇跡みたいな人だよ」



 飛鳥は、抑揚のない口調で同じように呟いていた。







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