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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
135/805

  台風到来8

 台所のテーブルの上にラテン語の教科書を開いたまま、吉野は心ここにあらずといったと風情で頬杖をついていた。

「お茶にするから片づけてよ」

 二階から降りてきたデヴィッドが、はらりと暖簾を揺らして入ってきた。


「居間を使えよ。飛鳥は?」

「お風呂にいったよ」

 デヴィッドは吉野の向かいに腰をおろすと、両肘をテーブルについて覗きこむように見つめて、「聞いてたんでしょ? ヨシノ、行儀わるいなぁ」とからかうように微笑んだ。

 吉野は眉をひそめて睨み返し、いったんは視線を教科書に戻した。だが、イライラした調子でバタンと本を閉じた。



「デヴィは記憶力いい方?」

「ラテン語を覚えるのは大嫌いだよ」

「じゃなくて、昔のこととか覚えてる方?」

「そうだね。覚えている方かなぁ」

「俺、記憶力いいんだ。でも飛鳥はからっきし駄目。興味あることしか覚えない。飛鳥の記憶ってすごくアテにならないんだよ」

「へぇ~」

「人の名前とか顔、全然覚えないんだよ、あいつ。おまけに、」


 吉野は、チラリと壁にかけてある時計を見ると、テーブルに出しておいたおはぎをレンジに入れ解凍ボタンを押した。


「自分に都合のいいことしか覚えてないんだ」

「けっこう誰だってそうじゃないの?」

 デヴィッドは椅子の背もたれに身体を投げだして、クスクス笑いながら相槌を打つ。


「お茶にするんだろ? なに飲むの?」

 吉野は鍋に水を入れ、火にかけながら振り返って訊ねる。


「紅茶」

「自分でやれよ」

「じゃ、コーヒー」

「よし。俺の愚痴聞いてくれるなら、特別サービスで淹れてやる」

「いいよ~、別に」


 デヴィッドは、頬杖をついて上目使いに吉野を見あげる。


 もともとそのつもりの癖に、回りくどい奴――。


 吉野はコーヒーやお茶は淹れてくれるのに、紅茶はがんとして淹れようとしない。日に何度も紅茶を飲む自分たちへのあてつけだ。今だってそうだ。そんな態度を改める気はない癖に、コーヒーを淹れる、そんなことを理由づけにしなければ、甘えることもできないなんて――。




 カップを戸棚から出し、吉野はコーヒーの準備をしながら話し始めた。


「俺な、母さんが入院していた頃ってまだ小さくてさ、六歳から七歳くらいだったんだ。会う度に痩せていって、別人みたいに変わっていく母さんを見るのが怖くて、見舞いにもあまり行かなかった。行ってもちらっと顔だすだけで、すぐにどこかへ行ってた。そんな薄情な子どもだったんだよ。……飛鳥も、父さんも、見舞いに行けとも言わなかった。母さんの苦しんでいる姿を俺に見せたくなかったんだ。飛鳥は工場を手伝って、それから病院へ行って、ずっと母さんの傍にいたんだ。俺のことほったらかしでごめん、て今でも言うけどさ、そんなの当たり前だろ。母さんはずっと病気と闘っていて、飛鳥もずっと傍で一緒に闘ってたんだから」


 吉野は火を止めて沸騰した湯をちょっとの間冷まし、丁寧にセットしたドリッパーに注ぎ入れた。コーヒーの香ばしい香りが広がる。



「飛鳥は俺のこと忘れてたんじゃないよ。一番辛いことを一人で引き受けてくれてたんだ。親の死に目に会えないなんて、て、いうけどさ、俺、死ぬとこ見てないから、元気で綺麗な母さんの思い出しかないもん。飛鳥はみんなの辛いとこばっか見てるから、いつでも自分を責めるんだよ。父さんも、死んだ祖父ちゃんも、飛鳥に甘えすぎなんだよ」


 吉野は淹れたてのコーヒーカップを、コトリとデヴィッドの前に置いた。



「それじゃ、何で兄ちゃんって呼ぶの止めたのさ?」

 デヴィッドが静かに口を開いた。

「ん? 兄貴だと思うと甘えちゃうだろ。飛鳥は誰よりも賢いのに、誰よりも馬鹿だからさ、これからは俺が飛鳥を守るんだ」


 吉野は砂糖とコーヒーフレッシュをデヴィッドの前に置きながら、当然のことのように答えた。




「おい、お前、今、砂糖何杯入れた!」

 突然、吉野は気味の悪いものでも見るような目つきでデヴィッドを凝視する。

「いちいち数えてないよ」

 その視線にイラッと眉を寄せ、デヴィッドはツンと顔を反らせる。

「そんなんじゃ、コーヒーの味なんか判んないだろ! 飲むなよ! もったいない!」

「なに言ってんの! ケチくさいな!」

「もう、絶対、お前にはコーヒー淹れてやらない!」



「吉野! また喧嘩してるの?」

 飛鳥が濡れた髪を拭きながら台所に入ってくる。


「あ、コーヒー? いい匂い。僕も淹れて」

 だが特に険しい空気、という訳でもないことに安堵して、飛鳥はへらっと微笑んで漂う芳香を吸いこんだ。


「これやるよ。飲む気失せたから」と、吉野は自分のカップを飛鳥に回す。首を傾げる飛鳥に、「こいつ、砂糖を五杯も淹れたんだぞ! 信じられる? 味覚、死んでんだろ!」顔を顰めてデヴィッドを指さす。

「普通だよ。英国人ってかなり甘党だもの」

 飛鳥はクスクスと笑いながら椅子に腰かけ、カップを口に運ぶ。


「ほら」

 吉野は小さく吐息を漏らし、解凍して少し温めたおはぎを飛鳥の前に置いた。

「食べる?」

 飛鳥はその皿をデヴィッドの前に寄せる。目を輝かせて頷く彼に、吉野は輪をかけて毒づいた。


「砂糖五杯に、さらにおはぎかよ!」

「フツーでしょ。ね、アスカちゃん」

 すでにおはぎにかぶりつきながら、デヴィッドは飛鳥に目配せしている。

「うん。ケーキとか、日本の十倍は甘いかな」

「げ……。俺、向こうで食えるもんあるの?」

「エリオットの、ご飯は、美味しいよ」

 口一杯におはぎを頬張っているデヴィッドの返事は、砂糖に絡みつかれているように聴きとりづらい。


「味覚オンチの言うことは信じられない」

 吉野がデヴィッドに冷たい視線で応えるのを、飛鳥は慌てて取りなした。

「ほら、ウィルも言ってたじゃないか。キングススカラーの寮は、シェフが作る食事だって」

「ああ、そんなこと言ってたな……。そうだ、飛鳥、ここ教えて。あいつに宿題出されているんだ。こいつ、役に立たないからさ」



 吉野は急に思いだしたように、ラテン語の本を手元に引き寄せ、ページを開けて飛鳥の前に押しやった。





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