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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  台風到来6

「デヴィッド!」

 朝っぱらから吉野の怒鳴り声が響き渡る。

「何だよ。うるさいな」

 階段の上にしゃがみこんで、デヴィッドは階下を見下ろし不機嫌な声で返答する。


「何だよ、これは!」

 玄関先に置かれた幾つもの段ボール箱と所在なさげな作業員を指さして、吉野はいっそう声を荒立てる。

「見ての通り。食洗器だよ」

「だから、なんでこんなもの勝手に買ってるんだよ!」

「必要だからに決まっているだろ。見て判んないの?」

 デヴィッドは怒り狂っている吉野を尻目に、玄関に立ち尽くす電気工事作業員に呼びかけた。

「テレビとクーラーは二階にお願いしまーす」



 作業員はどうしたものか迷っているらしく、ちらりと吉野の顔を見て「お家の人、いないの?」と困り切っている。


「構いません。彼の言う通りにして下さい」

 開け放していた玄関口から、出先から戻ってきた杜月氏の声が掛かった。作業員はほっとして二人がかりで荷物を二階に運び、作業を開始する。



「父さん、知ってたんなら先に言ってくれよ」

 吉野は頬を膨らませ唇を尖らせている。

「うん、まぁ、今、知ったんだがね」苦笑いする父親からメールの画面を向けられ、「あいつは……」ちっと舌打ちをすると、吉野は二階に続く階段を睨みつけた。






「ヨシノ~、今日のご飯は何?」

 電化製品の設置が全て終わった時にはお昼を回っていた。

 素知らぬ顔で二階から降りて来たデヴィッドは、上機嫌で吉野を呼ぶ。


「素麺」

「え~! また~!」

「うるさい! 文句があるなら外で食べて来いよ。こんなもの勝手に買いやがって。洗い物が嫌なら家で食べるな!」

 吉野は食洗器を横目で睨みながら、嫌そうに顔をしかめている。

「なんで~? 便利じゃない。今時ない方がおかしいんだよ。電気圧力鍋、ロボット掃除機、それに食洗機はイギリスではサンシュノジンギだよ~!」

 デヴィッドは唇を尖らせて文句を言いつのる。


「台所が狭くなった」

「いいじゃん、別に」

「動線が乱れるんだよ」

「ドウセンって?」

「自分で調べろよ。何でもかんでも人に訊くな」

 吉野はデヴィッドを睨みつけると、ぷいっと台所を出て行ってしまった。



「怒らせちゃいましたね」

 マクレガーは苦笑しているが、「別に~。ヨシノだしね~。それより、ドウセンって何?」と、デヴィッドは気にする様子もなく先ほどの質問を繰り返した。


「生活動線。または家事動線。効率良く動けるように動きを線で捉えて結び、家具の配置や間取りを決める考え方です。この台所は、彼が効率良く家事が行えるように考えて家具が配置されています。その動線がこの機械で分断されるんですよ、この配置だとね。それで彼は怒っているんですよ。ここ以外に置きようがないし困りましたね」


 立て板に水が流れるような説明に、デヴィッドはちょっと驚いた様子で長い睫毛を瞬かせている。

「面白いねぇ」

「面白いですよ。この家の造りは」

 マクレガーはテーブルの上にあったメモ用紙に、この家の見取り図を描き、嬉々として説明し始めた。





「飛鳥、起きてる?」

 父の部屋のベッドに横たわる兄に、吉野は小声で声を掛ける。

「うん」

 青白い顔をした飛鳥は、寝転んだまま瞼を持ち上げた。

「賑やかだったね」

「あの馬鹿が、フルハイビジョン六十インチテレビに食洗器、それにクーラーを買ったんだ。それの設置工事をしてた」


「クーラー?」


 デヴィッドとビルの使っている飛鳥の部屋にも、マクレガーのいる元、母の部屋にも、クーラーは付いている。怪訝そうに自分を見つめる飛鳥に、吉野は床に腰を下ろしてベッドにもたれ掛かり視線を合わせた。


「俺の部屋。飛鳥のために」

「デイブに何か言ったの?」

 吉野は首を横に振った。

「知っていたんじゃないのか? 飛鳥は暑さに弱いから、って言っていたぞ」


 飛鳥は困ったように薄く唇を引きつらせる。


「あいつ、めちゃくちゃ金遣い荒いな」


 吉野の呆れ声に、苦笑して頷いた。




「飛鳥、まだしんどい?」

「しんどくないよ」

「嘘つき飛鳥。母さんと同じだ。飛鳥がしんどくないって言うときは、まだ駄目ってことだな」

「じゃ、本当の時は何て答えればいい?」

「言わなくても判る」

「夏が終われば……」

 飛鳥は横向きに寝返ると窓の外に視線を向けた。

「蝉が鳴くから――。思い出してしまうんだ」



 母が亡くなったのも、こんな蝉の鳴く暑い日だった。夏は、祖父との想い出に溢れていた。去年の祖父の初盆の時も、同じように体調を崩した。もし、お盆に本当に故人の魂がこの家に帰って来てくれているのなら、きっとこんな自分を見てがっかりするだろう……。そう自分に言い聞かせ叱咤しても、身体はいうことを利かない。


 蝉の声が耳につく。人の言葉に変換される。


 もし、あの時――。

 もし、僕が――。


 同じ問が何度も、何度も繰り返される。


 あの蝉は、僕を罰するために鳴いているんだ――。


 飛鳥の虚ろな心には、そんな無意味な言葉ばかりが流れていた。




「なんでお祖父ちゃんは、僕に留学するように言ったんだろうね?」

「飛鳥が行きたいって言ったからだよ」

「サマースクールの留学費用は……」

「もういいだろう。言うなよ」

「どうして、僕は……」


 お祖父ちゃんの想いに、気付けなかったんだろう――。




「もう考えるな」

 吉野は掌で飛鳥の両目を覆いその視界を遮った。



 あの図面の計算をもっと引き延ばせば良かった……。


 中学、高校と『杜月』の仕事で忙しく、友達らしい友達のいなかった飛鳥の連れて来た友人がデヴィッドみたいな奴で、安心して気を抜いてしまっていた。飛鳥の視界を覆っている安心感からか、吉野は露骨に顔をしかめていた。


 何かに夢中になっていれば、まだマシなのに……。


 もし祖父ちゃんの魂がお盆でこの家にいるのなら、文句のひとつも言いたい。祖父ちゃんが一番可愛がっていた飛鳥を苦しめたくて、死んだわけじゃないんだろう? もう飛鳥を祖父ちゃんから自由にしてやってくれよ――。


 

 兄には決して言うことは出来ない言葉を呑み込んで、吉野はついっと視線を窓外に向けた。狭い庭。紫陽花の緑。古ぼけた板塀も、あの頃と何の変わりもないと言うのに――。



 飛鳥の上に置かれた吉野の右手が、じんわりと濡れている。

 吉野は飛鳥に視線を戻し、そっとその涙を手のひらで拭ってやった。






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