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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
132/805

  台風到来5

「ごめん、ウィル。吉野がまた失礼なことを言ったって?」

 飛鳥は夕食後の後片づけをするウィリアムの顔色を窺うようにおずおずと見やり、謝った。



 飛鳥が帰国してから、吉野が切り盛りしていた日々の家事労働は分担して担っている。だが、炊事はやはり吉野の領域だった。それも今日からマクレガーが吉野に指示を仰ぎながら請け負うことになった。それにともない、杜月家の留学生各々に家事の役割が再編成された。

 お坊ちゃん育ちのデヴィッドがどれほど我儘を言うかと、飛鳥は戦々恐々と身構えていたのに、意外なほどすんなりと彼はこの家のルールを受け入れた。初対面で手を上げたことすら忘れたように、吉野と一番気が合っている様子なのもこのデヴィッドだ。飛鳥は当たり前に我を通すデヴィッドと、鼻っ柱の強い吉野が衝突するのではないかと気を揉んでいたというのに。意外なことに、常にピリピリして吉野と一触即発の下にあるのは、いつも穏やかで誰にでも優しいウィリアムだったのだ。



 食後、杜月氏はデヴィッドたちを花火大会に案内し、体調の思わしくない飛鳥とウィリアムだけが留守番に残った。久しぶりにウィリアムとゆっくり話ができる今の内に、少しでも吉野との間のしこりをほぐさなければ――。と、飛鳥は思考を巡らせている。




「何のことですか?」

 ウィリアムは作業は続けながら、顔だけ向けて怪訝そうに飛鳥を見返す。

「え? どれのことか判らないほど沢山あるの?」

 茫然とする飛鳥に、「いえ、怒るようなことがあったかな、と。思い当たらないので」とウィリアムは彼の手から食器を取り上げ、椅子を引いて座るようにと促した。

「えっと、ガラスの図面の件だよ?」

 飛鳥は逆に困惑気に首を傾けている。

「ああ、座っていて下さい。また貧血を起こすといけない」

 ウィリアムはあくまでにこやかだ。その笑顔に逆らう気にもなれなくて、飛鳥は言われた通りに腰を下ろした。


「あれは僕の言い方が悪かったんです。ヨシノクンに謝らなくては」

 反応が面白くてついからかっただけだ、とは、さすがに飛鳥には言えないな、とウィリアムは適当な事を言ってはぐらかしながら、「でも、ヨシノクンは、あの図面で何をしていたのですか?」と、あの時と同じ質問を繰り返す。


「ガラス粒子の密度計算をして貰っていたんだよ。吉野はコンピューター並に計算が速いから」

 飛鳥はため息交じりに答えた。その意外な返答に、ウィリアムは洗い物の手を止めて振り返る。


「コズモスで計算して貰ってもいいんだけれど、僕も考えながらやっているから、その都度吉野に伝えて、修正を入れながら組み立てていくのが一番速く結果をだせるんだ」

「彼もそんなに数学が得意なのですか?」

「数学って英才教育できるからね。僕も、吉野も、小さい頃からがんがんにお祖父ちゃんに鍛えられているもの」


 祖父のことを語るとき、飛鳥はいつも淋しそうな、哀しそうな、何とも言えない微笑を浮かべる。この時もそんな曖昧な、泣いているような笑みを浮かべて、「計算は僕よりも吉野の方が速いよ」と締めくくった。




『吉野を巻き込まないで』とは、そういうことだったのか――。


 ただ単に企業間の争いに、と言うだけではなく、『杜月』にも、コズモスにも関わらせるな、ということ。ならば仕事を手伝わせなければ良いのに、飛鳥は、吉野を自分の一部かのように思っている……。


 胸中のそんな想いとは裏腹な適当な相槌を打ち、ウィリアムは洗い物を終わらせると、「ヨシノクンもいないことですし、たまには紅茶を飲みませんか?」と、飛鳥に屈託なく笑いかけた。





 クーラーの利いた居間で熱い紅茶を飲みながら、ウィリアムは、どうすれば飛鳥を吉野から自立させられるだろう――、と頭を悩ませる。


 座卓を挟んだ向いに座りティーカップを手にした飛鳥も、どうすればウィリアムと吉野がもっと打ち解けてくれるのだろう――、と、思いを巡らせている。


「アスカは、」

「ウィルは、」

 互いに言葉が重なって、顔を見合わせて笑い合った。


「先におっしゃって下さい」

 いつものウィリアムの穏やかな笑顔に励まされ、飛鳥は思い切って訊ねた。

「ウィルは吉野のことが嫌いなの?」

「かなり気にいっていますよ。意思が強くて、機転が利いて、賢い子ですね、彼は」

「でも生意気で礼儀知らずで……。ごめん」

「まだ子どもですよ」



 それ以上に、あなたの方が弟の前では幼くなっていますけれどね……。


 ウイスタンでの、誰にも甘えずに不器用なほどに孤立奮闘していた姿とこの家での落差をどう埋めるべきか判らないまま、ウィリアムは曖昧に微笑んだ。


 ただ、ヘンリー様には今のあなたを会わせたくない……。


 どうするべきか未だ考えが至らないにしても、その一点だけは確かなことだと思える。ウィリアムは表情を変えることなく、静かにティーカップを口に運ぶ。



「ウィルは? さっき言いかけたこと」

「体調はいかがですか?」


 この状況で何を訊いても無駄な気がして、彼は話を切り替えた。


「うん。たんなる夏バテだよ。僕はもともと自律神経が弱くて上手く体温調節できないんだ。暑さに極端に弱いんだよ。でも吉野がいるから。吉野は僕以上に僕のことを判ってくれているんだ。あいつのおかげで、僕はお祖父ちゃんといっしょに研究に打ち込めて来たし、あいつがいるから頑張れるんだ」

 飛鳥は顔をほころばせて誇らしげに話している。そんな彼を見つめるウィリアムの瞳はあくまで冷ややかだ。



「彼が英国に来ることが嬉しいですか?」

 その問に飛鳥は首を横に振った。軽くため息を吐く。

「却って心配だよ。ずっと傍にいられるわけじゃないし。あいつは負けん気が強くて生意気からね。特にヘンリー、彼にケンカでも売るんじゃないか、って気が気じゃないよ。ヘンリーに紹介するの、今から気が重いんだ」


 全くです……。

 僕も今は彼にお会いするのに気が引けていますよ。


 したり顔で頷いてしまいそうな衝動を抑え、そんなことはない、と首を振る。だが、そんなウィリアムの胸中を想像できるわけもなく、飛鳥は嬉しそうに付け加えた。


「でも、ヘンリーには早く会いたいよ。吉野の立ててくれた計算式で、工場生産用の試作が作れそうなんだ」







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