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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  台風到来3

 「何をしているのですか?」

 ウィリアムが吉野の手元を背後から覗き込んで訊ねた。もちろん何をしているかは見れば判る。吉野はもの凄い速さで図面に数字を書き込んでいる。それだけだ。だが、彼にはその数字の意味が判らなかった。厳密に言えば、その数字が導きだされる根拠が判断つかなかったのだ。


「見るなよ。企業秘密だ」

 吉野は顔も上げず、シャープペンシルを走らせながら答えた。

「それなら、きみも見るな。その図面はコズモスから送られてきたものですよ」

 冷ややかな言い草に吉野はイラッと頭を起こし、ウィリアムを睨めつける。


「これはうちのガラスの図面だろ?」

「もうコズモスのものです」


 手の中のシャープペンシルをぐっと握りしめ、吉野は眉根を寄せた。ウィリアムの明るい緑の瞳は、どんな感情ものせない。そんな相手に文句を言ったところで何になる、との疑念が常にあった。だが、言葉は意志に反して突いてでてくるものなのだ。彼のような気短な性格だと特にそうだ。


「あんた、俺に喧嘩売ってんの? なら、こんなことくらい、自分たちでやれよ。飛鳥を使うな」

「こんなことって? 先ほどからそれを訊いているんですよ?」


 吉野はむすっとした態度で黙り込み、そっと膝の上の飛鳥を床に下ろした。替わりに座布団を折り曲げてその頭の下に差し入れ、「起こすなよ。ずっと寝不足で疲れているんだ」と言い捨てて立ち上がる。そして、ウィリアムを一瞥することもなく居間を出ていった。




 残されたウィリアムは、デヴィッドが加わってからはや四日目にして、ますますこじれていく吉野との中に苦笑して、小さくため息をついていた。

 けれど、あんな子どもにムキになって振り回されているなど、我ながら情けない、と思う反面、面白くもあったのだ。今まで深くかかわった日本人が飛鳥だけだったせいか、日本人とは、皆、飛鳥のように大人しくて優しい、静かな国民性なのだという先入観があった。そしてその思い込みはあながち外れていないように思えたのだ。吉野を除いては。

 飛鳥の弟が、こんなにも鼻っ柱が強く、平然とものを言う恐いもの知らずとは、思いもよらなかった。それに問題は、吉野ではなく飛鳥の方だということも。

 飛鳥の弟に対する依存度の高さを見るにつけ、ウィリアムは人知れず顔をしかめているのだ


 ヘンリー様が、飛鳥の不規則な食事や睡眠にとても気を使っていらしたのに――


 と、ウィリアムは今更ながらに、深くため息をつかずにはいられない。なんのことはない、飛鳥は、母親の残したレシピ通りに作る吉野の料理にしか興味を示さないなどと、どうして主人に報告できるだろう。それ以外に彼に沿う好みというものなどない、などと。仮に毎日の食事が栄養剤であっても、おそらく飛鳥は文句を言うことなく受け入れるだろう。

 なぜこんな歪な生活習慣が根づいててしまったのか。その原因は吉野にある、とウィリアムは推察している。このところ打ち込んでいる『杜月』の仕事中でも、食事も睡眠も、飛鳥は吉野の言う事なら素直に聞くのだ。吉野が完璧に管理してきたから、彼はあそこまで自身の生活に無頓着になった、と言えるのではないか。




「朝食は、どうされますか?」

 台所からマクレガーが顔を覗かせて尋ねた。


 ウィリアムは立ち上がると、畳に寝転がってすやすやと眠る飛鳥の傍を、足音を忍ばせてそっと通りぬけた。


「ええ、いただきます」

「なかなか、ヨシノくんのようにはいきませんが」

「彼の料理の腕前には驚かされますね」

「まったくです」


 二人は顔を見合わせて笑いあい、何日かぶりのイギリス式の食卓に着く。





 飛鳥が目を覚ました時には、横で父が図面に目を通していた。

「おはよう」

「おはよう、て時間でもないのかな?」と、飛鳥は寝ぼけた顔で起き上がり、まず父を見、それから図面に視線を落とす。


「吉野は?」

「買い物に行っているよ」

「何時?」

「そろそろ十一時だな」

 顔を押さえて、飛鳥はしまった、とため息を漏らす。

「寝すぎた……。今日からお盆なのに」

「もう準備してくれているよ。ほら」


 父の視線を追って仏壇に目をやると、すでに精霊棚が組まれていた。畳の上敷きが掛けられ、四隅に笹が立てられている。


 姿勢を正し、安置されている祖父と母の位牌に手を合わせると、飛鳥は優しい笑みを湛えて父を振り返る。


「吉野は、いい子に育ってくれたね」





「ただいま」

 声と同時に、玄関先からどっと笑い声が聞こえてきた。

「おかえり!」

「飛鳥、起きた?」

 買い物袋を抱えた吉野たちが、ガヤガヤと楽し気に居間に入ってきた。



 吉野は袋から茄子と胡瓜を出して座卓に置くと、台所から爪楊枝を取って来た。マクレガーは残りの食材を抱えて入れ替わり、道々吉野に教わったお昼の準備に取り掛かる。


「あいつらに精霊馬の話をしていたんだ。馬と牛、デヴィに教えてやって。デヴィが作ってみたいって」

「その前にシャワーを浴びて来ていいかな? 本当に今、起きたところなんだ」

 飛鳥が見上げると、デヴィッドは軽く頷いて承諾する。


「じゃ、ちょっと待っていて。急いで済ますから」

 飛鳥が立ち上ると同時に、吉野は慌ててその腕を掴んだ。

「ほら、立ち眩み。気をつけろよ」

「ありがとう、吉野」

 飛鳥は吉野の肩に額を凭せ掛け、大きく肩で息をしている。

「やっぱりもう少し寝ていろ」

「大丈夫」

「いいから寝ていろ。父さんの部屋、使うよ」

 吉野は、返事も聞かずに飛鳥の腕を掴み、部屋から引っ張っていった。




「アスカちゃんは働きすぎだよ」

 ぽつんと呟いたデヴィッドに、「ああ」と杜月氏も困ったように頷き、おもむろに無造作に置かれた胡瓜のひとつに手を伸ばした。


「じゃあ、私と精霊馬を作ろうか。いつも飛鳥と吉野にまかせていたからな、上手くできるかな? 吉野が作ると毎回変な細工を入れるんだ。今年はオーソドックスなやつにしよう」

「変な細工って?」

「写真を見るかい?」


 目を輝かせているデヴィッドの意を汲んで、杜月氏は笑いながら立ち上がった。





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