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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  台風到来2

 座卓に何枚もの設計図面を散らばしたなかに、飛鳥が突っ伏して眠っていた。声をかけていいものかと迷い、取りあえず、ウィリアムは静かに横に腰を下ろした。


「起こすなよ」

 背後から、吉野の抑えてはいるが険を含んだ声がかかる。

「おはよう」

 ウィリアムもまた小声で返すと、声の方を振り仰ぎ、そっと立ちあがる。


「昨夜は遅くまで起きていたの?」

「静かにしろよ。さっき寝たところなんだから」


 台所へと移ってきたウィリアムを一瞥することもなく、吉野は相変わらずの仏頂面でテキパキと朝食の支度にかかっていた。


「家のことはマクレガーに任せるように、と聞いていませんか? きみが留学した後の切り盛りは、彼にしてもらうことになるのだと」


 ウィリアムは入り口に佇んだまま腕組みして、静かな声で問いかけた。だが吉野には寝耳に水だ。いぶかしげに手を止め、顔をあげる。


「マクレガーって、あの巻き毛の執事じゃないのか?」

「デヴィッド様だよ。今は彼のお世話も兼ねている。けれど、マクレガーは杜月家の執事としてここに来ている」

「はぁ? 誰がそんな事決めたんだ? 勝手なまねするなよ!」


 吉野は怒りに任せ、ダンッとテーブルに拳を叩きつける。だがウィリアムは眉一つ動かすこともなく冷ややかな視線を返すだけだ。


「きみは、きみがいなくなった後のことを考えたことがあるの?」

「親父はここに寝に帰ってくるだけだ! 執事なんて御大層なもんがいるわけないだろ!」


 吉野の怒鳴り声で目を覚ましてしまったのか、「何?」と飛鳥が気怠そうに入ってきた。椅子に腰かけると、ボーとしたままテーブルに頬杖をついて「マクレガーさんのこと?」とまだ眠たげな視線を吉野に向ける。


「吉野、コーヒー淹れて」

 そう頼んでから、半分夢心地のような軽い調子で「秘書見習いだって、父さんの。申し訳ないよね。執事の真似事からハウスキーパーまでやらされるって。彼にはこれから公私共々お世話になるんだよ」と飛鳥は説明した。


「だから、なんだってそんなのが必要なんだよ! 他人に家のことを任せる必要ないだろ?」

「僕の心配の種がひとつ減るだろ? ヘンリーはそういう奴なんだよ。不安の種は一つずつ確実に潰していく」

「どういうこと?」

 吉野は怒りを抑えながら、それでも湯を沸かし、コーヒーを淹れる。


「だからさ、僕が安心できるんだよ。お前の替わりに、誰か父さんの世話をしてくれる人がいるとさ」

「それならそれで、なんでわざわざ外国から呼ばなきゃならないんだよ? ハウスキーパーでもなんでも雇えばいいじゃないか!」

「『杜月』は、もう今までと同じじゃないんだ。多国籍企業なんだよ。それにみあった人材を育てていかなきゃいけない。僕らがイギリスに戻ったら、入れ替わりでコズモスの社員をうちで預かって研修してもらうことになったんだ。マクレガーさんはその世話役も兼ねてるってことだよ」


 淡々とした飛鳥の説明に、吉野はとても納得できなかった。なんだって、こいつらは人の家にずかずか上がり込んでくるのだ、と内側から食い荒らされているような気分の悪さを感じていた。

渦巻く想いをぶちまけたい衝動に駆られながら、吉野は息を詰め、ぐっと堪えていた。訊いても無駄なように思えたのだ。何よりも、文句も言わず当然のことのように受け入れている飛鳥のことが、まるで理解できなかったから――。

 だからそれ以上何も言わず、ウィリアムに向かって、「あんたも、コーヒー飲む?」とだけ訊ねた。


 そしてしばらくむっつりと考え込んだ後、「じゃ、もう俺は用無しでいいんだな」と、用意していた食材を片づけ、鍋の火を止めた。


「吉野、朝ご飯は?」

 飛鳥は手渡されたコーヒーを口に運び、ぼんやりした顔のまま弟を見上げる。

「そいつにイングリッシュ・ブレックファーストでも作ってもらえよ」


 吉野は顔をしかめて答えると、そのまま台所を後にした。飛鳥がその背中を追って声をかける。


「お前のだし巻きがいい」

「イギリスで作ってやる。俺は忙しいんだ」

「ああ、そうだった。続きをやろう」


 飛鳥もマグカップを片手に立ち上がった。ウィリアムをちらりと見やると、申し訳なさげに薄く微笑んで。




「おはようございます。気にしないで好きに使って下さい」

 台所に面した廊下で、どうしたものかと当惑したように佇んでいたマクレガーに、飛鳥は屈託なく笑いかけた。だがそれ以上かまうこともなく居間に戻り、吉野の横に座る。弟と同じく図面を選り分け始める。


「寝てろよ。その間に計算ぐらいやっとくから」

 吉野は何事もなかったように飛鳥を見つめ、その手から図面を取りあげた。

「うん。じゃあ――、できたら起こして」

 飛鳥はにっこりして弟の膝に頭をのせ、ごろりと横になる。そして目を瞑ると当然のように、瞬く間に寝入っていた。







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