台風到来
朝から叩きつけるような土砂降りの雨だった。
昼を過ぎても雨脚はいっこうに弱まる気配もなく、さらに勢いを強めている。台風が来ているのだ。強風に、老朽化した雨戸がガタガタと音を立てて揺さぶられている。
吉野は台所に座り込んだまま、イライラと時計を気にしていた。
「ただいま! 吉野、タオル持ってきて!」
玄関がガラリと開く音がする。空港に新しく来る留学生を迎えにいった飛鳥が、ようやく戻ったらしい。吉野は、「遅かったな」と玄関を一瞥すると、急いで洗面所に置いてあるタオルを抱えてくる。
間口は狭い方ではない杜月家の玄関だが、男五人ともなるとさすがに一杯だ。
「タクシーが家の前まで入ってこられなくて、途中から走ってきたんだ。えらい目にあったよ」
飛鳥は吉野からタオルを受けとると、一番に、長身でがっしりとしたビル・ベネットの後ろに隠れるようにいたデヴィッド・ラザフォードに渡した。
「デイヴ、取りあえず拭いて」
宗教画の天使のようなくるくるの巻き毛から雫がしたたっている。緑にも金色にも見えるヘーゼルの瞳に濃い睫毛が煙るようだ。甘やかで端正なデヴィッドの容貌に、「本当に綺羅綺羅しいお姫様だな」と吉野は飛鳥の言葉を思いだして呟いた。
「なんて言った?」
デヴィッドは、顔を上げてキッと吉野を睨みつけると上り框に足をかける。
「誰が、女だって?」
流暢な日本語で言い、勢いよく平手を打ち下ろす。
「乱暴なやつだな」
吉野はその平手を腕で受け止めて顔をしかめ、「土足で上がるな」、と足先でデヴィッドの靴を小突いた。
「デイヴ、ごめん。僕が悪いんだ。僕が吉野に馬鹿なこと言ったから」
飛鳥が慌てて二人の間に割って入った。
「なんて言ったの?」
完全に不機嫌な顔をして、デヴィッドは飛鳥に向き直る。
「エンドウ豆の上のお姫様みたいに、」
「繊細でデリケート」
言われ慣れた呼称にデヴィッドは機嫌を直したのか、ツンと自ら誇らし気に宣言する。
「高慢で我儘」
その後ろで、靴を履きながら吉野が呟いた。
「吉野、さっさと行きなよ。挨拶は後でいいから! 弓道、遅れてるんだろう?」
「言われなくても行くよ。まぁ、悪かったな」と、吉野は立ち上がってデヴィッドに右手を差し出した。ところがデヴィッドは、ぷいっと顔を逸らす。
「吉野、握手は目上からだよ」
慌てた飛鳥は、またもや取り成しに目を白黒させている。
「え? こいつ、これで目上なの? まあ、いいけど。もう何年もしない内に俺の方が追い越すよ。そしたら、きっとあんた、俺が手を差し出すのを待つ様になる」
それだけ言うと、吉野は玄関をガラリと開けた。
大粒の雨が、風に煽られて叩きつけるように玄関先まで振り込んでくる。
「吉野、傘!」
「いらない。さしても無駄だろ?」
吉野は土砂降りの中へと駆け出した。飛鳥のため息は、雨音に掻き消されてしまっていた。
「デイブ、本当にごめん。あいつ反抗期で」
「うん。解るよ」
デヴィッドは特に腹を立てている風でもなく、ぽつんと呟く。
「生意気な年頃だよね」
「取りあえず上がって。お風呂を溜めてくるよ」
気を取り直しバタバタと奥へ入っていった飛鳥は、すぐに戻ってきた。「吉野がやってくれていた。デイブ、先に使って。ウィル、みんなを部屋に案内してあげて」ウィリアムに後を頼むとデヴィッドの腕を掴み、飛鳥は忙しなく奥へと消えていく。
「面白いな、あの子」
ビル・ベネットがにやにやしながら呟いた。
「ええ、本当に」
ウィリアムも微笑み返し、「先に着替えましょうか」と静かに立ち尽くしたままのアルバート・マクレガーに声をかける。
ようやくこの三人は、びしょびしょに濡れた靴と靴下を脱いで、丁寧に足を拭き、これから一年を過ごすことになる杜月家に上がることができたのだ。
九藤朋さま画 『無邪気』デヴィッド・ラザフォード




