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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  夏の瞬き9

 自室の片づけをひと段落させ、飛鳥は汗を拭きながら、台所でグラスに麦茶を注ぎ入れた。

「ウィル、聞きたいことがあるんだ」

 グラスを二つ持つと、クーラーの利いた居間に運び、腰を下ろす。

「ずっとバタバタしていたから、なかなか時間が取れなくて……。すごく今更なんだけどね、ガン・エデン社を訴えたヘンリーの、本当の目的を教えて欲しいんだ」


 ウィリアムは表情を変えなかった。だが、どう答えるべきか明らかに迷っている。


「ごめん、ウィル。きみを困らせるつもりはないんだ。ヘンリーが、『杜月』のために骨を折ってくれているのも判ってる。今回の件にしても。でもヘンリーは、うちでさえ知り得なかった情報を手に入れて、うちの名前でガン・エデンを訴えた。内部リークの情報だって言ってたけど、違うだろ? ハッキングしたんだろ、ガン・エデン社の社内メールをさ。僕は、ヘンリーにそんな危険なマネをして欲しくないんだ。それに――」


 飛鳥にしても、何も答えないウィリアムに、これ以上話を進めてもいいものかと迷い、言い澱む。


 そんな沈黙の後、ウィリアムが静かに口を開いた。


「ガン・エデン社の契約は、初めから『杜月』の光配光技術を盗むための契約だったのです。大口契約を結び製造工程を調べあげて、技術を盗み取ったら、安く生産できる中国や東南アジアの工場に拠点を移す。それが彼らのやり口です。はなから下請け部品メーカーが、特許侵害を訴えるなどとあり得ない、とタカをくくっている。ヘンリー様は、そこを突き崩したいのです。彼が望んでいるのは賠償金ではなく、判例です。下請け企業が大企業の横暴に打ち勝つ、そんな前例を作りたいのです。それができれば、後に続く企業がきっと出てくるはずですから」

「『杜月』は裁判で勝てるの、あんな大企業に?」

「勝ちます、必ず」


「内側からガン・エデン社を崩すつもりなんだね。彼はすごいね……。僕は目先のこと、自分のことしか考えられないのに」


 飛鳥は立ちあがり、障子を開け放った。


「開けてもいい? 吉野は暑いって、すぐ怒るんだけれどね」


 ウィリアムも立ちあがって横に並ぶと、飛鳥は縁側に置いたままの蚊取り線香に火を点け、ガラス戸を大きく開けた。


 蝉の声が一層大きく響いてくる。


「暑いなぁ」

 縁側に腰を下ろして、飛鳥は笑ってウィリアムを見上げた。


「僕はね、吉野がかわいくてしかたがないんだ。年齢(とし)が離れてるのもあると思う。あいつが小学校にあがる前には母さんは入院していて、あいつの母さんとの想い出は、ほとんどが病院の中なんだ。それが可哀想で、申し訳なくてね」


 飛鳥は少し苦しそうに息を吸い込んだ。


「グラスフィールド社との間ではいろいろあって――、嫌がらせとか、危険な目にも、ね……。本気で命まで取るつもりはなかったんだろうけど、脅しには十分なくらいにね。そんなことと並行して、社員が家にまで交渉に乗りこんできてたんだ。だから吉野は、西洋人に対する警戒心がひどく強いんだ」


 過去を見つめる飛鳥の瞳はぼんやりと宙を彷徨い、眉根はひどく苦しげに潜められている。


「僕も、何度目かの怪我をしていて、なんだったっけ? 車に轢かれそうになったんだったかな……。そんなこんなで、みんなぴりぴりしていた頃だよ。夜、道場に吉野を迎えに行って表で待っていたら、グラスフィールド社の社員に話しかけられたんだ。話の内容は、もう忘れた。そんな程度だったんだけれど、なんでだか、腕を掴まれたんだ。そこに吉野が出てきて、道場に駆け戻るなり弓を手に戻ってきた。矢を番えて、引き絞ったんだよ。『飛鳥を放せ』って」


 飛鳥は力なく苦笑して、深く息をつく。


「人には二種類あるって、聞いたことない? 拳銃の引き金を引ける奴と、引けない奴。僕には引けない。人に銃口を向けることすら無理だ。でも吉野は違う、そう思い知ったんだ。本気で怖かった」


 飛鳥は、横に座るウィリアムの明るい緑の瞳を、哀願するようにじっと見つめて言った。ウィリアムは一言も発しないまま、その憂いを湛えた鳶色の瞳を見つめ返した。



「お願いだから、吉野を巻き込まないで。あいつは僕とは違うんだ。僕みたいに自分から泥沼に踏み込んでいるのとは違う。吉野には自由に生きて欲しいんだ」


 飛鳥が目を伏せて口を噤むと、日当たりの悪い濃い緑のシダの茂る狭い庭に、蝉の声だけが樹上から降り注いで吸い込まれていく。


「僕はいつの間にかヘンリーに絡めとられていて、身動きすらできない。彼は僕に何も教えてくれないから、何も判らないままだ。彼の望みは何なの? 復讐?」

「復讐?」


 たたみかけるような飛鳥の問いに、ウィリアムは怪訝そうに呟いた。


「彼が以前そう言ったんだよ。もし、彼の望みが僕の特許なら、全部あげるよ。レーザーガラスの特許も、全部。もし僕が死んだら、吉野が引き継ぐことになるんだ。あいつに負の遺産を押つけたくない。ヘンリーなら守ってくれるだろ? 彼ならプロメテウスの火だって扱えるだろ? だから吉野だけは、巻き込まないで」


「ヨシノクンは、あなたが思っているほど子どもじゃありませんよ」

「みんなが思っているほど大人でもないよ」

「心配しないで下さい。ガン・エデン社とは法廷で闘うだけです。以前のような嫌がらせなど、起きません」


 ウィリアムは柔らかく微笑んだ。飛鳥の不安を拭いさることができるように、誠心誠意を込めて。




「何やってんの? 暑いから閉めろよ」


 部活から戻った吉野の声だ。クーラーのきいてない部屋にがっかりした顔で不貞腐れている。


「お帰り、吉野」

 飛鳥は笑顔で立ち上がるとガラス戸を閉め、小声でこっそりとウィリアムに囁いた。

「ごめん、ウィル。今言ったことは忘れて」


「吉野、買い物に行くなら花火を買ってきて」

「手持ち? 打ち上げ?」

「庭でできるやつ」

「わかった。他には?」

「アイス、メロンのカップに入ったやつ」

「あ! ほら、開けっ放しにするから、もうこんなに蚊が入ってるじゃないか!」


 パン! と手を叩く音に、じっと立ち尽くしたまま考え込んでいたウィリアムが、びくりと震えた。


「ごめん、驚かせた?」

 そんなウィリアムに逆に驚いた吉野が、素直に謝った。

「いえ、別に。お帰りなさい、ヨシノ」

 冷たく一瞥し、その存在に今気が付いたとでもいう風にウィリアムは緩く微笑んだ。



 泥沼だと言うのか――。あの方()が渾身込めて築き上げられた今の状況を、泥沼だ、と。


 そんな鬱憤がウィリアムの胸中に渦巻いていた。だがおくびにも出さず無表情に腕組みしたまま、彼は思考を巡らせていた。

 まったく元の木阿弥だった。いや、このままではそれ以上に悪い。この家は飛鳥を過去へと引きずり戻し、ヘンリーの築きあげた信頼関係を一瞬にして破壊してしまったのだから――。


 まさかここまで、家族が、弟が、飛鳥の弱点(ウイークポイント)だとは――。


 ここにきて初めて目の当たりにすることになった飛鳥の弱点が、こんな作用を及ぼすなどと、思いもよらぬことだった。


 ウィリアムは深く吟味するかのように冷ややかに、談笑している兄弟を凝視していた。

 




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