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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  夏の瞬き6

「随分遅かったな」

 0時を回ってやっと帰宅した飛鳥を、吉野はしかめっ面で出迎えた。

「父さんは?」

「まだ終わらないんだ。今日は工場に泊まるって」

「またトラブル?」

「まあね。でも心配いらないよ」


 もう慣れた……、こんな事ばっかりだ、と吉野はうんざりした顔をしながら湯を沸かし、慣れた手つきでコーヒーを淹れる。


「また行くの?」

 兄に背中を向けたまま、吉野は淡々と訊ねる。

「今日はもう行かないよ」

 飛鳥はくたびれきった声で答えた。


「いい匂い」

 コーヒーカップを受け取り、「むこうじゃ紅茶ばかり飲んでたからさ、お前のコーヒーが懐かしかったよ」と飛鳥は嬉しそうに微笑んでいる。吉野も自分のカップを手にその向かいに腰を下ろした。


「夕飯はちゃんと食べた? ウィルはもう寝ているの?」

「たぶん。飯はあいつにどっかのホテルのフレンチに連れていかれた。俺がまともなマナーで食えるかどうか見たいからって」

 人心地がついた飛鳥が思いだしたように訊ねると、今度は吉野の方が、もう怒る気力もなさそうな疲れた声で応じた。

「エリオットのスカラーの飯は、三ツ星のシェフが作る正規のディナーなんだって。なんであいつ、こんないちいち煩いの?」


 飛鳥は何と答えていいのか迷いながら苦笑し、「生き易くするためだよ。お前のためだ」と、優しいいたわるような瞳で吉野を見つめる。

「英国は階級社会だから、まず発音で、次に服装や所作で階級を判断されるんだ。だから僕も、初日にヘンリーに言われたよ。

 Hold your head up high.

 頭を高く上げろ。堂々と誇り高く振るまえ、ってね。学校の中でさえ、一部の上流階級(アッパークラス)は、僕たちみたいな労働者階級(ワーキングクラス)とは口を利こうとすらしないからね」

「ヘンリーてやつは貴族なんだろ? あいつは?」

「ウィル?」

 吉野が頷くと、今度こそ飛鳥は困ったような顔をした。

「彼は、その、貴族ではないよ」

「じゃ、労働者階級?」

「ごめん。なんて答えていいのか判らない」視線を逸らして、コーヒーを口に運ぶ。


 吉野は、そんな兄をじっと睨みつけるように見つめ、「なんで外国資本に特許を売ったの? あんなに嫌がっていたのに」と、ずっと心を占めていた疑念をようやく口にする。

「空中映像の特許、なんで売ったの? せっかく完成したのに。あの出来なら外資に売らなくたって済んだんじゃないの?」

「あの出来って、お前、動画を見たの?」

「何度も繰り返し見たよ。ダウンロードして保存してある」

「見せて! あの動画、すぐに削除されて僕は見ていないんだよ」





 二階の吉野の部屋に行き、パソコンの電源を入れる。飛鳥は短い動画を何度も再生して食い入るように見つめ、しばらくしてやっと画面を停止させると、深くため息をついた。無意識に画面に向かって呟いていた。


「やっぱり、きみはすごいな。ヘンリー……」


 それからきちんと姿勢を正し、吉野に向き合った。


「吉野、僕の特許だけじゃ商品にはならなかったんだよ。これをここまで完成させたのは、ヘンリーとコズモス社なんだ。今でも『杜月』のガラスだけでは、商品価値なんてないに等しい。コズモスのデジタル変換装置がないと、こんな鮮明な映像化はできないんだ」

 飛鳥は眉を寄せ、自分をあざ嗤うかのように言葉を継ぐ。

「僕の特許なんて価値はないんだ。ヘンリーは、ただ、僕と『杜月』を助けてくれただけなんだよ」

「なんで?」

 吉野は疑わしそうに顔をしかめる。

「友達だから」

「冗談だろ」

 吐き捨てるように言い、顔を背ける。

「彼は本物のノーブルだから。仲間を命がけで守るのが貴族の義務だって。自分の言葉を守る人なんだよ」



 騙されてる……、飛鳥は馬鹿だから。何億の金が動いていると思っているんだ? 中坊の俺にだって判る話だぞ。それとも道楽で会社ひとつ買えるほど、そいつは金持ちなのか?


 と声に出すことなく悪態をつき、吉野はイライラと親指の爪を噛む。


「吉野、爪」

 飛鳥は腕を伸ばして弟の手を掴み、その癖を止めた。


「お前が心配してくれるのも判るよ。でも、彼に会えば判る。ウィルは彼の部下なんだよ。僕を守るために来てくれてるんだ。グラスフィールド社からどんな逆恨みを受けるか判らないから」

「逆恨み? 恨んでいるのはこっちだろう?」

「裁判とか、うちのガラスの販売差し止め請求とか、いろいろあったからさ……」



 それにおそらく、飛鳥にかかわったせいで退学になった生徒が何人もいることも、飛鳥の心にひっかかっていた。ヘンリーもウィリアムも何も言わない。だが、飛鳥が階段から突き落とされてから状況が一変したのだ。それが偶然とは思えなかった。グラスフィールド社の不正事件が発覚したことさえ、ヘンリーが何か仕掛けたのではないかと思えたほどだ。さすがにそこまでは無いだろうと、打ち消しはしても――。


 どこまでを弟に話すべきかと、飛鳥の脳裏で目まぐるしく過去が交差する。


「特許は外資に売ったんじゃない。ヘンリーにあげたんだよ。彼が僕のために取ってくれたリスクに見合うリターンを、返したかったんだ」


 飛鳥はなんとも言えない表情で、緩く微笑んだ。吉野は、そんな兄を訝し気に眺めながらも、もう、それ以上何も訊ねなかった。






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