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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第三章
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  夏の瞬き2  

「只今戻りました」

 飛鳥は一言呟くと、じっと目を瞑って仏壇に手を合わせた。


 そして振り返ると、「足、崩しなよ。正座、辛いだろ?」と、ウィリアムに笑いかける。

「この部屋をウィルに使ってもらうんだけれど、古くて狭くて驚いた? この仏壇は後で下の居間に下ろすから、もう少し広くはなると思うけれど」

 日に焼けた畳に足を伸ばして、飛鳥は久しぶりの我が家をぐるりと見廻した。開け放たれた障子に面した廻り廊下をぐるりと囲む、格子に組まれた木製の桟の古ぼけた窓外には、濃い緑が眩しく輝いている。幾重にも重なる蝉の声が、締め切った窓ガラス越しに響いている。


「あの方が好みそうな音色ですね」

 ウィリアムは微笑んで、姿勢を崩さないまま窓の向こうに茂る木立を見渡した。

「ヘンリー? 彼、虫の音を気に入っていたの?」

 蛍の映像のバックに流していた鈴虫やコオロギかな、と思い出しながら訊き返す。

「よくスマートフォンで聞いておられました」

 飛鳥は意外そうな顔をする。

「やっぱり、ヘンリーはわからないや。隣がお寺だからね。この辺りにしては緑が多いんだ。蝉の声、うるさいくらいだろ? ウィルは平気?」


「それに蚊も多い。なんで障子を開け放っているんだ? クーラーが効かないだろ」

 片手で麦茶の載ったお盆を持ち、反対の手で障子をぴしゃりと閉めて、吉野が部屋に入ってきた。



「何か武道をやってるの?」

 ごく自然に背筋を伸ばし、正座したまま麦茶を飲むウィリアムを真っ直ぐに眺めながら、「エリオットは、合気道のクラスがあるんだろ?」と、吉野が訊ねる。

「エリオットに入学するまでは、合気道を習っていました」

「今は?」

 ウィリアムは首を横に振って微笑んだ。

「時間が取れなくて。きみは? 何かスポーツをしているの?」

 吉野はその質問は無視して、「フェンシングは? 優勝したんだろ?」と畳みかける。


「吉野、お前、ちょっと変だよ。生意気になった」


 飛鳥は声を低め、日本語で弟を叱った。

 いや、生意気な面もあったけれど、こんな不躾な奴ではなかったはずだ。物怖じはしないが人懐こくて、誰にでも好かれる優しい子なのだ、こいつは。自分の不在のこの一年が弟を変えたのではないか、とそんな不安が飛鳥の脳裏を過っていた。


「だって、向こうの飛鳥の周りの奴らって胡散臭い」

 吉野は唇を尖らせ、不満げに早口の日本語で応えた。その思いがけない返答に、飛鳥は拍子抜けたように口許をほころばす。

 やはり吉野は優しい子なのだ、と。自分がいない間も、ずっと自分の身を案じてくれていたのだ。そして今の状況の変化についていけず、警戒心を解くに至っていないだけなのだ。

「胡散臭いはないだろ?」

 飛鳥は笑って弟の肩を拳で小突く。吉野はちっと舌打ちして肩を竦めている。



 そんな二人を、ウィリアムは黙ったまま、静かに見守っている。


 ウサンクサイ……。スラングか? やはり付け焼刃の学習では、肝心の語句が判らない。と、その脳裏に単語を刻み付けながら、素知らぬ顔でグラスを口に運び、冷えた麦茶をごくりと飲み干す。



 兄弟の会話が途切れたところで、「ソールスベリー先輩から、ヨシノクンにプレゼントを預かっています」とウィリアムは傍らの旅行鞄から大きな包みを取り出し、座卓の上に置いた。

 吉野はさして嬉しそうな顔をするでもなく、びりびりと包みを破く。中から出てきた贈り物に、飛鳥はケタケタと声をたてて笑い、吉野は眉根を寄せて顔をしかめる。


「『 ラテン語文法 』!」

 吉野にも判るように、飛鳥は分厚い本の表紙に印刷された文字を訳して読みあげた。


「この夏の間に終わらせておくといいですよ」

「ナイス、ヘンリー! 僕も入学前に欲しかったよ」

 飛鳥は目に涙を滲ませて、止まらないといった感じで笑い転げている。吉野は訳が判らない様子でそんな兄を見つめた。



「それにヨシノクンの英語、軽くインド訛りがありますね。直しておいた方がいい。Rの音がきつ過ぎます。きみの英語の先生はインドの方ですか?」

 吉野はますます不愉快そうに目に険を走らせる。

「うちで働いているプログラマーの影響だよ。多分、学校での学習よりもずっと喋る機会が多いからだね。家族ぐるみの付き合いなんだ。年の近い子どももいるしね」

 むっとしている吉野に替わって、飛鳥が気遣うようにおろおろとしながら返答する。やはり吉野はどこか変わった。そんな気がしてならなかった。


「ラザフォード先輩が来るまでには、直しましょう」

「あんた、何しに日本に来たんだ? 日本語の勉強じゃないのかよ?」

 とうとう吉野がイラついた口調でがなりたてた。


「勿論、日本語学校には行きますよ。けれど僕がここにいるのは、きみがエリオットで平穏に過ごせるように、その準備をお手伝いするためです。エリオットは、ウイスタン以上に特殊な場所ですから」

 ウィリアムは、涼しい顔をして微笑んで言葉を継いだ。

「きみだって、それなりの覚悟を決めてエリオットを受けたのでしょう? 先輩の言うことは聞くものです。それが出来ないなら今ここで入学は諦めた方がいい。エリオットでは上下関係は絶対ですよ」


 吉野はウィリアムを睨めつけたが、言い返すことはしなかった。吉野にしてみても、兄からのメールで垣間見たパブリックスクールは想像を超えた未知の世界だったのだ。これから自分が足を踏み入れる異世界の情報は少しでも多い方がいい。目の前にいる男に対する不信と内心に渦巻く打算とで、悔しくとも唇を噛むほかはない。



「心配性の彼らしいね」

 飛鳥は小さく溜息をつくと、ウィリアムと顔を見合わせて苦笑しあった。




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