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春の墓廟

 コン,コン、コン。

 ノック三回はヘンリーの合図だ。サラは急いで扉を開ける。ヘンリーはサラの恰好を見たとたんに噴きだしている。


「きみだけ真冬みたいだね。もう四月も半ばなのに」

 カーデガン一枚羽織っているだけのヘンリーに対して、サラはいつものパンジャビ・スーツの上に分厚いダッフルコートを着て、頭をストールで覆っているのだ。

「だって寒いんだもの」


 いつまでたっても寒い。サラにとって三回目の英国の春だったが、いまだにこの国の気温には慣れなかった。


「ちょっと歩くから、すぐ暑くなるよ」

 ヘンリーは笑いながら言い、サラの手を引っ張って歩きだす。

「行こう。すぐに夜が明けてしまうよ」




 南玄関で、二人は執事のマーカスに呼び止められた。

「坊ちゃん。外はまだ冷えますのでこれをお持ちになって下さい。暖かい紅茶と軽くつまめるものが入れてありますので」

「ありがとう、マーカス」

 バスケットを受け取ると、ヘンリーはサラの手を引いて表に踏みだした。



 扉を開くと刺すように冷たい空気が流れこんでくる。ヘンリーも思わず身を縮めずにはいられなかった。

「ほら、やっぱり寒いじゃない」

 サラは自分の主張の正しさが証明されたとばかりに、満足してヘンリーを見あげている。

「二十分後には、きみはそのコートを脱いでいるよ。賭けてもいい」

 ヘンリーは自信ありげににやりと笑う。そして、まだほの暗い薄闇の中、テラス階段を弾む様に降りていった。





 夜明け前の内庭は、一面朝靄に包まれていた。二人は黙ったまま、六フィートはある綺麗に刈り込まれた生け垣の間を黙々と進んでいく。生け垣の内に作られたいくつものガーデンルームをただ通り抜けていくだけだ。一言も喋らずに――。


 いまだ辺りは薄暗く、色とりどりのチューリップも固くその花びらを閉じてまどろんでいる。ほとんどの花が夜の眠りから覚めずにいる。

 その中で、白い花を植えたガーデンルームだけは、ライラックやコデマリの小さな、けれど豊かな花々が枝全体に咲き誇り、薄闇の中に幻想的に浮かびあがって息をのむほど美しい。


 その情景はサラの耳に、小さな白い花々がリンリンと鈴を振るような音を奏でているように聴こえていた。


 昼間とは別のお庭にいるみたい。


 辺りをうっとりと眺めながら歩いていたので、つい、ヘンリーに遅れてしまいそうになる。

 それなのに、ヘンリーは足を止めることもなく通りすぎていくのだ。

 サラを誘っておいて、別のことを夢中で考えているようで、サラは少し悲しくなった。




 ――一番大切な場所に連れて行ってあげる。とても綺麗な所だよ。


 イースター休暇も明日で終わりというぎりぎりになって、ヘンリーは、サラにとても重大なことを告げるように大真面目な顔をして言った。


 ――だから、明日は早起きするんだよ。


 それだけ言うと、さっさとベッドに追い立てられ、いくら聞いても勿体ぶって教えてくれなかった。


 大切な場所ってどこだろう? 何があるんだろう? この家に来てもうじき三年になるのに、サラは、この家のことも、庭も、余り知らなかった。



 ヘンリーが寮に戻る日には、いつも心細くて、不安で泣きそうになってしまう。そうならないように、サラの気がまぎれる何かを、また見つけてきてくれたのだろうか? サラがずっと読みたかった、絶版になって諦めるしかなかった専門書や、売り切れてしまった雑誌のバックナンバーを、そっと置いていってくれたように。

 そう考えて、期待して、嬉しくて、サラはなかなか寝付けなかったのに。




 長い生け垣が終わると視界が開け、広大なフラワーガーデンには青紫色のネモフィラの群生が広がっている。

 朝露に濡れた野草を踏みしめながら、ヘンリーはずんずんと進んで行く。

 見渡す限りの青の花が薄明りの瑠璃色と混じり合う。

 前を歩くヘンリーが、青の中に飲み込まれて消えてしまいそうで、サラは急に怖くなった。


「ヘンリー!」


 息を弾ませながら、ヘンリーの手を引っ張り、立ち止まった。


「もう、庭は、終わりでしょう?」


 ネモフィラの花畑を抜けると、この先はキッチン・ガーデンで、その向こうにはなだらかな丘陵が続くコロラド・スプルースの林の入り口だ。


「もう、疲れたの? サラは、運動が足りないよ」

 そう言いながらも、ヘンリーは立ち止まってサラの息が整うのを待った。

「どうしても、学校には行かないの? 家で勉強はできても、運動はできないよ。体を鍛えるのも、大事なことだよ」

と、真面目な瞳でサラを見つめて言った。


 唐突に学校の話題を出されて、サラは驚いたように大きな目を更に大きくしてヘンリーを見返した。

「そりゃ、プレップ・スクールなんてサラには物足りないかも知れないけど。いっそのこと、大学に行くとか……」


 ふふ。サラは可笑しそうに笑い、  

「大学にいっても、それこそこの体格差じゃ、スポーツなんてできないじゃない」

「確かに」

 ヘンリーも苦笑いして頷いた。


 サラは年齢以上に小柄で、背の高いヘンリーと二十インチ近い身長差がある。


「ちょっと待って。コートを脱ぐから」

 サラはストールを外し、コートを脱ぎ始めた。

「ヘンリーの勝ちね。わたし、何をしたらいい?」

「そうだな、着くまでに考えておく」

 ヘンリーは、自分のカーデガンを脱いでサラの肩にかけ、サラのコートをさりげなく持つと、サラを促して言った。


「さすがにその恰好じゃ冷えるよ。僕のを着ているといい。もう少しだから」

「ヘンリーは寒くないの?」

「大丈夫。すぐだから」

「あと、どのくらい」

「この丘の上」


 ヘンリーは、林を指さした。

 サラは思わず顔をしかめて、それからそっと上目遣いにヘンリーを見あげる。


「うちの庭は、丘を下ったずっと先の川の辺りまでだよ。まぁ、そこまでは行かないけどね。さぁ、運動、運動」


ヘンリーは、にっこりと笑うとまた歩きだした。







二十インチ…… 約五十cm

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