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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  進路6

 ライム・グリーンに輝くゴールデンアカシアの木陰が長く伸びる頃、ガーデンセットに腰かけ、ヘンリー・ソールスベリーは、ぼんやりと水面を渡る風の起こすさざ波を眺めていた。


 七年……、七年掛かった。やっと願いが一つ叶う。


 それなのに素直に喜べない。遣る瀬無い思いに、胸が締め付けられていた。



「ヘンリー?」

 黙ったまま沈み込んでいるヘンリーに、サラは心配そうに声を掛ける。

「何でもないよ。……でも、」

 後悔しているような、遣り切れないような複雑な表情で、ヘンリーはため息交じりに苦笑する。

「僕は人として、大切な何かが欠けているいるんじゃないか、って気がするよ。アスカがあんなにショックを受けるなんて、思わなかったんだ。もっとほかに方法があったかもしれないのに」


 ――『杜月』を潰した。手に入れるために。


「それがベストな方法だったわ。『杜月』にデメリットは無かった。負債は無くなって、サプライチェーンも一新できた。過去の柵も断ち切れて、コズモス(うち)と組む方がずっと利益も上がる。社名だって残るし、会社として存続できた。何が気に入らないの?」


 サラは、理解できない、と訝し気に訊き返す。

「騙して、あんなに嫌っていた外資系企業(うち)に組み入れたんだ。自国の技術を流出させない信念で、ずっと大企業と闘ってきたのに」

「ナンセンス。そんなだから食い物にされたのよ」

「その通りなんだけどね……。創業百年以上の老舗会社だよ。僕がこの土地を大切に思うと同じように、アスカにだって、会社に対する愛情や誇りは特別なものがあったのだろう、と今さらながらに思うと、ね。友達のフリをして、特許をだまし取った気分なんだ」


 ヘンリーは、情けなさそうに唇を歪める。




 四年前、サラはネット上で飛鳥に出会い、空中映像の技術と理論を知った。そこから、飛鳥とは別のアプローチで同じ課題に取り組んできた。


 コズモスの次のプロジェクトとして、光ファイバーを使った新しい通信技術で映像を空間に投影する。


 ヘンリーは、サラが何をしているのか、よくは知らなかった。父の事業に関心を持ちたくなかったのが、彼女のプロジェクトから目を逸らしていた理由なのかもしれない。エリオット校での日々をやり過ごすのに、必死だったからかもしれない。


 だがエリオットで偶然出会った飛鳥からサラの名を聞き、サラから飛鳥の話を聞いて、ヘンリーは嫉妬した。彼には理解できないサラを理解できる飛鳥に……。


 飛鳥が作り出す魔法のような作品は、文句なしに素晴らしかった。でもそれ以上に、ものづくりに対する彼の情熱に、真摯な姿勢に、みんな心を打たれ魅了された。ロレンツォも、デイヴも、あのエドワードさえ……。そして誰よりもヘンリー自身が。それなのに――。


 そんな飛鳥を騙した。サラのプロジェクトを成功させるために。特許だけではなく、『杜月』をまるごと手に入れるために……。




「ヘンリー……、このプロジェクトから下りたい? ヘンリーが嫌なら、止める」


 サラはどうしていいのか判らないふうに、困惑した、不安そうな瞳で呟くように訊いた。


「まさか! そうじゃないよ。ただの感傷だ。自分の愚かさが許せないだけだよ。プロジェクトは予定通りに、」ヘンリーは吹っ切るように笑みを浮かべた。「いや、もっと早まるよ。ルベリーニの出資も決まったんだ」



「Sed quis ego sum?  aut quae est in me facultas?」


 眼前に広がる静かな水面ではなく、もっと遠くを見つめているような瞳をして、ヘンリーは自嘲的に、聞き取れないほどの小声で呟いた。


「何、何て言ったの?」

 不安に怯えるサラの声音に一瞬で我に返り、彼はサラに視線を戻した。


「入学当初、アスカはラテン語を全く知らなくて。仕方がないよね。彼の国はキリスト教圏ではないのだし。ウイスタンの校歌がラテン語だってことにすごく驚いていたんだ。ラテン語の授業は必須だからね。ジュニアのクラスで一から学ぶのは、とても大変そうだったよ。だけど卒業の日には、ラテン語で友情を表す言葉をくれた。彼、外見は優し気で、幼く見えて可愛らしいんだけれどね。芯は負けず嫌いで頑張りやなんだ」


 ヘンリーは、目を細めて嬉しそうに語った。いつもの、穏やかな優しい表情を見て、サラはほっと胸を撫で下ろす。


「どんな言葉?」

「真の友人は稀で、利害ではなく愛によって心が結びつくことで、友情が生まれる。そんな意味の言葉だよ」


 ヘンリーは腕を伸ばしてサラの髪をそっと撫でる。


「きみとアスカのこのプロジェクト、絶対にやり遂げるよ。彼の信頼に応えるためにもね」


 そうしなければ、遣り切れない――。


『杜月』の、彼らの守ってきた想いをせめて引き継いでいきたい。せめて、利害ではなく愛によって結び合わされた製品を世に送り出したい。

 

そんな想いを胸に秘め、ヘンリーは優しく、安心させるようにサラの額にキスを落とした。決して彼女に心の内を悟らせないように、確固たる自信をみなぎらせて。



 しょせん僕には、何も生み出せないのだから――、と。



 Sed quis ego sum? aut quae est in me facultas ―― ? 

(僕は何者だろうか? 僕にどんな能力があるのだろうか――?)







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