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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
112/805

  進路2

 あと、十日……。

 随分、いろんなことがあったなぁ。もう卒業だなんて……。


 と、乱雑に散らかった機材を段ボール箱に詰め込みながら、杜月飛鳥は感慨深げに狭い部屋のあちこちをゆっくりと眺めていた。

 機材は夏の間ヘンリーに預かって貰って、十月にケンブリッジに送ってもらう。もしAレベルが基準に満たなかったら、大学は諦めてコズモス社の研究室に入る。もう未来への道筋は整えられているのだ。日本を出立した時点では想像も出来なかった展開で。




 飛鳥の持つAR技術の特許権と株式を交換した後、『杜月』はコズモス社と合併して設立するアーカシャーHDの傘下に入ることになった。アーカシャーはサンスクリット語で『宇宙』の意味だ。本社は、英国ではなくスイスになるらしい。税金、優遇制度、新興企業には有利な面が多いのだそうだ。もっとも、日本の『杜月』も、ロンドンのコズモス社も運営は何も変わらないらしいが。


 当然ヘンリーのお父さんが社長だと思っていたコズモス社は、最高経営責任者(CEO)も、筆頭株主もサラだよ、と言われた。コズモス社はサラのものなのだ、と。


 ヘンリーのお父さんの会社のコンピューター部門を独立させ、全ての権利をサラが譲り受けたのだそうだ。


 ――僕は、雇われ最高執行責任者(COO)だよ


 何とも嬉しそうにヘンリーが言うので、飛鳥は狐に摘ままれた気分だった。


 飛鳥に取って、この二人の関係は未だによく判らない。恋人なのか、ビジネスパートナーなのか、もっと家族に近い、親しい間柄なのか……。

 とにかく、アーカシャーHDが設立した暁には、飛鳥とシューニヤ……、サラが代表になるらしい。早く見積もっても半年はかかると、ヘンリーは言っていたけれど。急転直下の境遇の変化に、飛鳥は、思考も感情も全くついていけていない。未だに夢の中にいるみたいに。





 相変わらずヘンリーは部屋に戻ってこない日が続いている。いる時でも、苦い顔をしてパソコンを睨んでいるか携帯を使っていて、飛鳥が話しかけられる雰囲気ではない。ただ、互いの会社のことで進展があった時だけ、義務的に報告してくれる。



 六月祭のコンサートの後、ヘンリーは、

 ――きみにとって、あの曲が特別な意味を持つことを知らなくて、辛いことを思い出させてしまって申し訳なかった。

 と、律儀に飛鳥に頭を下げてきた。


 驚いたのは飛鳥の方で、自分が無様に泣きじゃくった事で、またヘンリーを気遣わせてしまったことを後悔した。

 ここに来てから、何度、うまく感情をコントロールできなくて、彼に嫌な想いをさせただろう? かと。もう、数えきれないほどだった。


 ――違うよ。そうじゃないんだ。辛くて泣いてしまったんじゃないんだ。ほっとしたんだよ。グラスフィールド社からも、ガン・エデン社からも解放されて、やっとお祖父ちゃんも安心して天国へ行けるんだ、と思って。


 慌てて言い訳したけれど、ヘンリーは申し訳なさそうに微笑んだだけだった。




 僕がいつも彼を不快にさせてしまうから、彼は、僕といるのが嫌なんだ……。


 そんな想いに駆られるばかりで、飛鳥の胸はきりきりと痛んだ。






「夏の間はどうするんだ?」

「帰るよ」

「ロンドン?」

「マーシュコート」


 今日もヘンリーは機嫌が悪い。このところ毎日だ。ロレンツォは、もう慣れ切って怒る気にもならない。

 ヘンリー・ソールスベリーは機嫌が良い時の方が珍しい。数カ月かけてやっとその事実に気が付いた。これで普通なのだ、と。


「これはどうするんだ? やっと崩れてきているのに」

 顎をしゃくってパソコンを示す。六月祭を過ぎたころから、戻り基調にあった株価はゆっくりと下げ始めている。


 ヘンリーは面倒くさそうにソファーに身を投げ出し、目を瞑ったまま「もうすることはないよ。落ち切るのを待つだけさ」と呟き、それから少し間を置いて付け加えた。


「必要な時はメールする」

「グラスフィールド社の欧州ガラス工場を、融資するフリをして買い叩いているだろう? どうするんだ、あんなものを買って?」


 こっちから切り込まないと、こいつは何も言わない……。


 ロレンツォは、掴んだばかりの情報でカマを掛けた。


「早耳だな」と、ヘンリーは、ようやくしかめっ面のまま目を開けた。

「工場を買うんだから、生産するに決まっているだろう」

「何を?」

「IT機器」

「何もコストの掛かる欧州工場を買わなくったって、アジア工場があるだろう?」

「レベルが違うんだよ。スイスの工場には、世界最先端の研究設備と最高の技術があるんだ。腐ってもグラスフィールドさ。設備投資に金惜しみはしていなかったからね」


 ロレンツォは、はっと息を呑むとその口を閉じた。今までガンとして触れさせなかった自社の内情を、ヘンリーがこうも軽々しく口にしていることに疑念を抱いたのだ。裏があるのではないか、とそんな不安が脳裏を掠めていた。



 暫くして迷いながら、ロレンツォは正面から切り込む覚悟を決めた。だが控えめに、ヘンリーの機嫌を損ねないように、慎重に。


「『杜月』のガラスを大量生産するのか?」

 ヘンリーは黙って頷く。

「きみも乗るかい? まだ資金が全然足りない」

 ヘンリーはすっと長い睫毛を持ち上げて、妖しく輝く瞳をロレンツォに真っ直ぐに向け、にっと笑った。






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