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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  春の訪れ14

「僕はまた、フラッシュを焚いてしまったのかな……」

 ヘンリーは、辛そうに目を伏せて唇を歪めた。


 飛鳥の異常な反応を目の当たりにして、すぐに控室にスミスを呼んだ。ヘンリーの演奏は終えたが、コンサートはまだ二曲ばかり残っている。


 ――四大ヴァイオリン協奏曲のうちの三つはよく弾いているのに、チャイコフスキーは弾かないんだね。


 寮の防音室で練習していた時に、飛鳥にそう言われた。そして、いつか、きみのヴァイオリンで聞けたらいいな、と。



 あの時飛鳥は、どうしてそんな事を言ったのだろう?

 僕は、なんと答えたのだろう?


 僕のヴァイオリンではこの曲は弾けない。高音が伸びずに掠れてしまうから。

 そう、ちゃんと答えただろうか?

 何も言わなかったような気がする。飛鳥も、それ以上何も聞かなかった。


 ストラディバリウスは、嫌いだ。高慢で、我儘で、人を選ぶ。まるで、母みたいだ。その美しさで魅了して、自分勝手に振り廻すだけ振り廻したあげく、のめり込ませて破滅させる。


 だけど、こいつでなければ出せない音がある。

 ほかのものでは無理だったから、祖父に頼んだ。

 通常は短縮されたものが演奏されるこの曲の全曲を、聞かせたかった。

 喜んでくれると思ったんだ。




『杜月倖造氏は、孫の飛鳥を連れて行きつけの食堂で食事し、映画館で「Le Concert」を鑑賞、自宅まで飛鳥を送った後、自社工場の裏地で自殺』



「僕は、呪われているのかな。サラの時と同じじゃないか……。喜んでもらおうとすることが、いつだって裏目に出る。いつだって無神経に傷に触れて、血を噴き出させてしまうんだ」


 ジョン・スミスに渡された『杜月』の調査書の一枚をぐしゃぐしゃに握りしめて、ヘンリーは目を瞑ったまま眉を寄せる。



「それが悪いこととは限りませんよ、坊ちゃん」


 自分の前では決して弱みを見せないヘンリーのそんな姿に、スミスは何年か前のクリスマスの夜を思い出していた。


「彼だって、いつかは乗り越えていかなければならないのですから。誰にでも、私にだって、そういう傷のひとつくらいありますよ。何かのきっかけで傷が開く度に、強くなれるんですよ。その痛みを思い出す度に、強い想いに再生されていくんです。人間は、そんなふうにできているんです」


 ジョン・スミスは、ヘンリーに、というよりも自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。


 ヘンリーは驚いたように顔を上げた。


「あなたから、そんな言葉を貰えるとは思いませんでした」


 スミスは、皮肉気に口先を跳ね上げる。


「長年あのお嬢さんと一緒にいると、そう思わずにはいられなくなる。そうでしょう?」

 ヘンリーの顔からも笑みがこぼれた。どこか哀し気な、そんな笑みだったが。

「そうですね。その通りだ」




「それより、あっちに借りを作って大丈夫なんですか? むこうじゃ、あなたとストラドの経済効果をせっせと勘定しているでしょうに」

「そうでしょうね。でもフェイラーには借りを作ったのではなくて、貸しを返して頂いただけですよ」

 つい今しがたの彼とは違う、いつものスミスの物憂げな、冷徹さを感じさせる口調に、ヘンリーは邪気のない顔で、屈託なく微笑みを返した。



「例の件、よろしくお願いします。冬までには決着を付けますから」

「やはり、本気ですか……」

 静かに頷くヘンリーの眼差しにサラと同じ色彩(いろ)を感じ、スミスは小さく嘆息した。


 フェイラーだって、そうそう好き勝手はさせてくれないだろうに……。


 そんな不安が胸を過る。つい、小さく吐息が漏れた。


「坊ちゃんは、やはりサラお嬢さんと似ていらっしゃる」

「最高の賛辞だ。僕の目標はサラだから」


 ヘンリーは、すっきりした顔で立ち上がる。


「落ち込んでいても仕方がない。アスカに謝ってきますよ」

「今は行かない方がいい。もみくちゃにされますよ。フェイラーの護衛を呼んできます。坊ちゃんは先に寮へ戻って下さい。彼には伝えておきますから」


 ヘンリーは苦笑いして、またストンと座り直した。


「またエリオットの時みたいになるのかな……。クリスマスは平気だったのに」




 ウイスタンのクリスマス・コンサートは、バックのオーケストラが酷すぎた。

 だが今回は、同じ学生オケとは思えない出来だった。

 何よりも、ヘンリーが凄まじかった。

 どだい、ほっておいてくれと言うこと自体が無理な話だろう……。


 エリオットの時にしろ、今回にしろ、彼が本気で誰かのために奏でる時、その演奏は聴衆を熱狂させる。その時だけ、彼のいつも纏っている人を寄せ付けない冷たい空気が一変して、感情がほとばしる。耳元で、情熱的に愛を囁やいているように。



 この坊ちゃんは、自分ってものを本当に解っているのだろうか?


 ヘンリーのことは、幼い頃からよく知っているつもりだ。父親の代わりにその成長を見守ってきた。だがここにきて、大きく変貌を遂げようとしている彼に、彼自身戸惑い解らなくなっているのではないか、とそんな疑問がスミスの脳裏を過っていた。



「勝手に動かずに、ちゃんと待っていてくださいよ」

 スミスは、もう一度念を押してから、控室を後にした。





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