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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  春の訪れ12

 「どうしてこんな事になっているの?」

 飛鳥の問に、ヘンリーは渋い顔で眉根をしかめる。

 鍵を掛けた控えの教室は、ドアが何度もドン! ドン! と叩かれ、飛鳥やヘンリーを呼ぶ声が連呼されている。


「あれ、どういう仕組みなの?!」

「ヘンリー出て来て!」

「トヅキ君! もっとちゃんと説明してくれ!」

 ドアの向こう側で、怒声ともつかない声が絶え間なく上がっている。



「いつものあれだよ。生徒会がヘンリーを売ったんだ。全く、エリオットもここも一緒だね。おかしいと思わなかった? パンフレットにはヘンリーの名前は載っていないのに、あんなに女の子ばかりに陣取られて。ほら、さっきの発表も、もう動画サイトに上がっている」

 デヴィッドは、呆れ声でため息を付いた。


「それにしたって、こんな所まで入り込んでくるなんて……」

 飛鳥は、青ざめた顔で今にも蹴破られそうなドアを見つめる。

「ウイスタンは警備が甘すぎだね」

 デヴィッドは冷ややかに言いながら携帯をいじっている。


「護衛を呼んだよ。さっさとここを出よう」

「そうだな。その方が良さそうだ」

「どうやって?」

 飛鳥の問に、ヘンリーは無言で窓を指さした。


「飛び降りるの?」


 窓を開け、地面を見下ろしてみる。失敗しても、死にそうな高さではない。だが、足の一本くらい折ってもおかしくはないくらいの飛距離はありそうだ。


「背中から落ちるんだ。下で受け止めてあげるから」

 ヘンリーは、申し訳なさそうな顔を飛鳥に向けている。

「いいよ、僕はここに残る。きみは次の準備があるだろ? 先に行って。コンサートの時間になったら、表の人たちも、きっとそっちへ向かうよ」

 飛鳥は無理に笑顔を作って言った。


「駄目だ。置いていけない。恐らくあの中には記者が混じっている。あいつらのしつこさは半端じゃないんだ」

「来たよ」

 窓の外を見下ろしていたデヴィッドが、二人を呼んだ。



 ちらりと二人を一瞥すると、デヴィッドは大きく窓を開き窓枠に足をかけると、勢いよく蹴って飛び降りた。下で待っていた同じ制服姿の屈強そうな男が、その身体を楽々と受け止めている。


「うわ……。なんで、こんな事に慣れているんだよ……」

 窓辺に駆け寄った飛鳥は、信じらないといった面持ちで茫然とその様子を見下ろしている。


「怖いなら、抱いて飛ぼうか?」

 ヘンリーが心配そうに飛鳥を見つめている。

 飛鳥は首を振って顔をしかめた。


「トヅキ先輩!」

 窓の下から、小さく呼ぶ声がする。飛鳥が身を乗り出して覗くと、「受け止めますから、心配しないで」腕を振って飛ぶように促しているのはウィリアムだ。


 飛鳥は頷くと、窓枠に上がった。ぎゅっと目を瞑る。窓枠を握りしめていた指から力を抜いた。


 一瞬、頭の中が真っ白になっていた。


 その直後、どすん、と衝撃が全身に響く。地面の上に、ウィリアムを下敷きにしていた。


「大丈夫?!」

「平気です。お怪我はありませんか?」

 ウィリアムはにっこりと笑って身体を起こす。

「そこを避けろ」


 上から声がする。急いで立ち上がって場所を開けると、ヘンリーがひらりと舞い降りてきた。


「怪我はない?」

 その言葉とは裏腹に、ヘンリーは、いかにも不機嫌な表情で飛鳥を見ている。デヴィッドがケタケタと笑い出し、ヘンリーの腕を引っ張った。


「早く行こう。ミュージックホールまで走るんだよ!」





 先程までとは打って変わって、ミュージックホールは物々しい警備に包まれている。

 締め切られたエントランスのソファーに座って、飛鳥は「今度はまた、どういう事?」と、呟かずにはいられなかった。


 この学校はいったいどうなっているんだ?


 この六月祭は、文化祭と体育祭を合わせたような伝統行事。と、そんな認識でいた飛鳥には、たかだか高校レベルの学校行事にこの騒ぎは、とてもじゃないが思考が追いつかないのだ。



「ヴァイオリンの為です」

 顔を上げると、いつの間にか天使のように綺麗な少年が傍に立ち、その際立った美貌にふさわしい冷たいセレスト・ブルーの瞳で飛鳥を見下ろしていた。

「そっくりだね、お兄さんの子どもの頃に」

 デヴィッドが息を呑んで、呟いていた。


「初めまして。デヴィッド・ラザフォードさん?」

 少年は飛鳥から、かけられた声の方へときちんと向き直り、その手を差し出した。


 デヴィッドは、ぴっと不快そうに眉を跳ね上げると、「アレン・フェイラー、ヘンリーは、きみの年齢でもそんな無作法はしなかったよ」と、冷たく言い放つ。


「すみません!」

 アレンと呼ばれたその少年は、顔色を変えて手を引っ込める。


「そんなのでエリオットに入学するつもりなの? 考え直した方がいいんじゃないの?」

 追い打ちをかけるように、デヴィッドは冷たく言い放つ。




 うわっ、デヴィッドもアーネストに似て来たなぁ。弟対決だ……。


 青くなっているアレンに同情しながらも、飛鳥はアレンを威圧するデヴィッドに吹き出しそうになっている。デヴィッドの後ろに立つ、護衛だかボディーガードだかの男も、口を引きつらせて目を泳がせている。

 アレンとは逆のソファーの端にいるウィリアムは、素知らぬ顔をして立っている。



 この白々しい空気に、飛鳥はとうとう我慢しきれずに声を立てて笑い出した。


「デヴィッド、やめてよ。可笑しすぎる!」

「アスカ~! ここで笑っちゃ駄目じゃないか!」


 デヴィッドは口を尖らせて文句を言う。その割に彼自ら、腹を抱えて笑っている。だがやがて立ち上がるとアレンに向かい、「ごめん、ごめん。ちょっとからかっただけだよ。でも、握手の手を差し出すのは目上からってこと。気を付けてね」と、親し気にその右手を差し出した。


 アレンは、今度は顔を真っ赤にして、おずおずとその手を握り返した。緊張からか、恥ずかしさからか、小刻みに震えるまだ幼く華奢な彼の手を、デヴィッドはしっかりと握ってぶんぶんと振った。


「ごめんなさい」

「へぇ、意外に素直だね。フェイラー家はもっと鼻持ちならない傲慢な一族だと思っていたよ」


 デヴィッドは、ソファーに優雅に座り直した。足を組み、肘掛けについた腕を顎に沿えて、ばつが悪そうにしているアレンを物珍しそうに見上げる。


「それから、もし仮にだよ、ヘンリーがきみと同じ年頃に、そんな間違いを犯したとしても、彼なら絶対に素直に謝ったりはしないね」


 頭をくいっとひいて、デヴィッドは、わざとらしく見下すような目線をアレンに向けた。


「きっと数年もしないうちに、あなたは僕が手を差し出すのを待つようになりますよ。くらいの事は言うね、彼なら。でもまぁ、彼にそんなヘマなんてあり得ないけどね」


 その仕草が余りにヘンリーに似ていたので、飛鳥は我慢しきれず涙が滲むほど笑った。ウィリアムでさえ、顔を背けて長い指で口を押え、肩を震わせている。


 アレンだけが不快そうに綺麗な眉を寄せ、その場に佇んでいた。




「デイヴ、人をネタに笑うのはそれくらいにしておいてくれないか」


 ヘンリーの声だ。アレンの瞳がぱっと明るく輝き、ばね仕掛けのように振り返る。


「直にスカラーが休憩で出てくるよ。場所を移った方がいい。教室をひとつ開けて貰ったよ。エドガー、」


 ヘンリーの背後から、小柄なエドガー・ウィズリーがぴょこっと顔を出す。


「ご案内します」





「ソールスベリー先輩」

 ウィリアムに呼び止められが、ヘンリーはその顔を一瞥しただけで、ぷいっとそっぽを向いた。

「怒っておられますか?」

「別に」

 一行が二階に上がって行くのを確認してから、ウィリアムは「なら、拗ねておられる?」と淡々と問いを続けた。一歩引いて従ってはいるものの、その率直な問い掛けに、ヘンリーは反発を覚えてわざと無視した。


 けれど、歩調を緩めることなくステージへと向かう途中でため息交じりに、「アスカは僕よりもお前の方を信頼しているみたいだ」と、彼は従者から顔を背けたまま呟いた。


「それは違います。トヅキ先輩はこうおっしゃっていました。『ヘンリーは僕に甘すぎる。ヘンリーが僕のことを気遣うように、僕だって彼が心配なんだ。僕のために怪我させるんじゃないか、気が気じゃなかった』、と」


 ヘンリーは、驚いたようにその足を止めた。


「でも彼は、クリケットの試合だって、どうでもいいみたいにちっとも見てくれなくて」

 口ごもって、唇を尖らせる。

「あなたを見ていると、怖いのだそうです。これから演奏があるのに、怪我でもしたらどうしよう、と。アーネスト様も、デヴィッド様もおっしゃっておられましたよね。お二人とも、絶対に試合は観戦なさらなかった」

「そんなヘマはしないよ」

「解っていても、心配なのです」

「どちらも僕には大切なんだ」

「それも解っておられるから、お止めしないのです」


 畳みかけるように言われ、ヘンリーは本格的に拗ねた顔をして視線を逸らす。


「トヅキ先輩は、今日の演奏会をとても楽しみにされているそうですよ」


 ウィリアムが駄々っ子をあやすように優しく微笑んで言うと、ヘンリーは、少し機嫌を直したように表情を和らげた。


「知ってる。アスカはこの曲が好きなんだ。だからあの狸じじいに頭を下げて借りたんだ」

「喜ばれますよ、きっと」


 今度こそ、ヘンリーの口許からは、本当に嬉しそうな笑みがこぼれていた。







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