春の訪れ11
「アスカちゃん、ヘンリーはまだ?」
ホールのある科学館の控えの教室では、先に来ていたデヴィッドが退屈そうに口を尖らせている。
「ぎりぎりまでミュージックホールだって。リハーサル中だよ」
飛鳥は自分のノートパソコンを広げ、動作チェックを始めながら答えた。
「珍しいね。ヘンリーが真面目にリハなんて」
「そうなの? クリスマスもずっと練習してたじゃないか」
「へぇ……。こっちではそうなんだ」
机に腰掛けたデヴィッドはつまらなそうに足をぶらぶらさせながら、窓の外に視線を漂わせている。ヘンリーの到着が待ちきれないようだ。
「そうだ、デヴィッド、イナゴの天使って知っている?」
飛鳥は視線はパソコン画面に据え、忙しくキーボードを操りながら、ふと思い出したように訊ねた。
「ああ、アバドーンね。ヘンリー、まだこっちでそう呼ばれているんだ?」
「どんな意味? この天使の名前、知らなくて」
「天使というより悪魔だよ。ヘンリーは奨学生だったし、エリオットではクリケットチームには入ってなかったんだ。それなのに選択授業でしかプレイしたことのない、へぼい奨学生たちを率いて学年選抜で勝ちぬいて、対ウイスタン戦でも負けなし。それで、イナゴの群れを率いて災厄をもたらす天使アバドーンて、呼ばれていたんだ」
「今日もすごかったよ」
飛鳥は画面から顔を上げ、唇を曲げて肩をすくめてみせる。
「当然! ヘンリーだもの。これだって、」
デヴィッドは自分のことのように胸を張る。そしてポケットからウイスティアン・ラビットのキーホルダーを取り出すと、ぶらぶらと揺らしながら嬉しそうに笑った。
「即、完売。限定七十個だしね」
「やったね!」
デヴィッドと飛鳥は、パシッとハイタッチして笑い合う。
「何かいいことがあったの?」
ノックの音とほぼ同時にドアが開き、ヘンリーの姿が二人の視界に飛び込んでくる。
「十分前! さぁ、行こう!」
デヴィッドは満面の笑みで机から飛び降りた。
科学館ホールの前方座席は、何故か女の子たちで全て陣取られている。
クリスマスのコンサートとは違い、今日は一般人の聴衆といっても招待カードを持っているゲストだけのはずなのに……。
ステージの袖で、そんなどうでもいいことを考えながら、飛鳥は逸る気持ちを押さえようと、ガウンのポケットがらぶどう糖を取り出しガリガリと噛み砕いた。
そんな飛鳥の緊張をほぐすように、ヘンリーは穏やかにクスクスと笑い、デヴィッドは「僕も頂戴」、と手を差し出す。
飛鳥の名前が呼ばれた。緊張で震える足を、飛鳥はステージの右端に置かれたブラックボックスの前まで運ぶ。
「この日が来るのを、指折り数えて楽しみにしてきました。今日は、僕たちの創った、おそらく世界初の、本物の、拡張現実の世界を、皆さんにお目に掛けることのできる初めての日だからです。今日、ここにいる皆さんは、幸運です。スマートフォンの小さな画面の中ではない、大きなヘッドマウントディスプレイを取り付けての画面の中ではない、皆さんのその目で、現実とフィクションが融合する世界を見ることができるのですから」
ひゅーと、舞台袖にいるデヴィッドは、聞こえないように小さく口笛を鳴らした。椅子に腰かけ、机に置いた飛鳥のノートパソコンのキーボードに、出遅れないように指をかけたまま。
「言うねぇ、アスカちゃん。いつものぼんやりした姿からは想像もできないよ」
「これが本来の彼だよ」
傍らのヘンリーは、腕を組み真剣な眼差しを飛鳥に向けている。
「それでは、ご覧ください」
その声に反応したかのように、ブラックボックスの上方に白っぽい半透明のスクリーンが立ち上がる。飛鳥は、さらさらとその上に絵を描いていく。
「これ、兎に見えるかな?」
空中に、描かれたばかりの手足の生えた黒い塊が浮かんでいる。驚嘆の声が漏れながらも、会場からどっと笑い声と、「ノー!」の罵声が連呼された。
「だよね。僕は絵は苦手なんだ。絵の上手い友人に頼むことにするよ。ヘンリー!」
キャー! と、最前列から悲鳴に似た歓声が沸き、ステージにヘンリーが登場した。
「ハイ! ヘンリー、僕の代わりに兎の絵を描いてくれる? 僕のじゃ、駄目らしいんだ」
「だから言ったろう。これはトロールだって」
飛鳥はヘンリーにペンを渡しながら、大げさなジェスチャーで肩をすくめる。
「いいよ、もう、消去!」
空中の黒い塊がすっと消えた。
その後に、ヘンリーはさらさらとリアルな兎の絵を描き、制服を着せ、ローブを羽織らせる。
「ウイスティアン・ラビット、買ってくれたかな? 僕たちでデザインしたんだ」
ヘンリーの問い掛けに、また歓声が上がる。女の子たちは、兎のキーホルダーを握りしめた手を高く挙げている。
「ありがとう」
ヘンリーがにこやかに微笑むと、会場は一層の黄色い声で沸いた。
「あ、ヘンリー大変だ! 兎が逃げ出したよ!」
ヘンリーが会場に愛想よく応えている間に、兎は辺りを確かめるようにきょろきょろと首を振り、ぴょんとブラックボックスから飛び降りて、からかうようにその足元を跳ね回っていた。会場からは、どよめきと拍手が沸き起こる。
「ほら、捕まえて!」
飛鳥にせっつかれたヘンリーと、兎の追いかけっこがひとしきり続く。
「OK、ヘンリー。きみには捕まえられないよ。だってこの兎は、映像だからね!」
跳ね回っていた兎が空中でぴたりと静止する。ヘンリーが宙に浮かぶ兎を捕まえてみても、その長い指先は兎をすり抜け、空を掻くだけだ。
「これはゲームなんだ」
飛鳥は聴衆に向かって呼び掛ける。
「彼と対戦しているのは、兎じゃない。デヴィッド!」
飛鳥の手が示す舞台袖から、ノートパソコンを抱えたデヴィッドが現れる。
「この特殊ガラスで映し出されるスクリーンに描いた兎を、パソコンでプログラミングしてデヴィッドが動かし、あの、」と、飛鳥は頭上高くを指さす。
「プロジェクターで投影しているんだ。可動範囲は六フィート四方」
「アスカ、それじゃあ僕は負けっ放しかい? 捕まえられないのでは、対戦にならないじゃないか」
ヘンリーが指を立てて抗議する。
「その通り。それじゃ、フェアじゃないから、こうしよう。兎にタッチできたら……、」
飛鳥は静止したままの兎に触る。
「トロールに変わる!」
会場からどっと笑い声が起こった。飛鳥の描いた黒い塊のトロールがポンポンと跳ねている。
飛鳥は挙手して聴衆に呼び掛ける。
「誰か、このゲームをやってみたい人いる?」
会場の誰もが歓声とともに、我も我もと手を挙げた。
ステージに上がってきた初老の男性は、歓声を上げながら兎を追いかけ、息を弾ませながら、さも楽しそうに感想を語ってくれた。
「アリスの世界に迷い込んだようだよ。カレッジ・スカラーの兎を追いかけたら、一足先の未来に連れて行かれた」
その男性は三人に握手を求め、一人一人の手をしっかりと握りしめながら、子どものように瞳を輝かせていた。
「今日、過去の僕たちの描いていた夢が現実となり、新しい時代が幕を開けました。今、この時、この場所で、これまでにない新しい経験を共有して下さった皆さんに、深く感謝を捧げます」
飛鳥、ヘンリー、デヴィッドは一列に並び、カレッジ・スカラーのローブを翻し、深く優雅にその身を屈める。
横に大きく伸ばしたヘンリーの掌の上で、跳び乗ってきた兎も、同じように礼をした。




