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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  春の訪れ10

「ハットトリック!」

 フィールドに歓声が響き渡る。


 野外テントの下、昼食を終えた後の白いクロスのかかったテーブルの上で大量の書類に目を通しながらサインをしていた飛鳥も、思わず顔を上げてフィールドを眺めた。ウイケット後方にいる投手(ボウラー)のヘンリーが、片腕を上げて歓声に応えている。


「ヘンリーは絶好調ですね」

 隣に座るスミス氏に声をかける。

「クリケットの試合で、こんなにもスピーディーな展開は初めてですよ」

 スミス氏は熱心に試合を観戦しながら応えた。

「彼、早く終わらせたいみたいだから」

 飛鳥は苦笑して、感心、というよりは呆れた気分で、投球姿勢に入ったヘンリーをぼんやりと眺めた。


 四時から化学発明コンクールがあり、七時半にはヘンリーがソリストを務めるコンサートがある。


 全く、なんてタフなんだろう。毎日、朝帰りなのに……。


 試合は、もうあと一つアウトをとれば終了する。まだ二時間もたっていない。

 言っている間に、ウィケットが倒れアウトが確定した。拍手と大歓声が上がり試合は終了。


 大勢に囲まれながらも悠然としているヘンリーを眺めて、「彼はまさに群れを統率するリーダーだな」、と杜月氏が納得したように呟く。


「イナゴの群れを率いる天使アバドーンって呼ばれていましたけどね。去年までは敵だったので」


「ロレンツォ! ごめん。ボートの応援に間に合わなっかった!」

 肩を抱いて頬にキスするいつもの挨拶を、飛鳥は父の前で気恥ずかしく感じて顔を赤らめる。つい、誤魔化すような言葉が口を突いて出ていた。


「構わない。それよりフェンシングの応援に来てくれ」

「え? もう始まっているんじゃないの?」

「俺はシード枠だ。これからさ」


 ロレンツォは杜月氏に向き合うと、きちんと自己紹介と挨拶をし、「絶対に来いよ」、と飛鳥に念を押してから足早にスポーツホールへ向かった。


「僕も早く終わらせて、行かないと……」

 飛鳥は父に笑顔を向けた。そしてすぐに、表情を引き締めて再び書類に視線を戻す。そんな息子を、杜月氏は目を細めて眺めている。





 うゎ!決勝は、ロレンツォとウィリアムだ……。


 やっと書類のサインを終えフェンシング会場に移った飛鳥は、熱気に包まれたホールで、困惑して対戦表を眺めていた。


「父さん、どうしよう? どっちも友達なんだ」


 ウィリアムがこちらに気付き、会釈している。飛鳥も笑顔でひらひらと手を振り返す。


「ロレンツォ! エリオティアンなんかに負けるな!」

「ロレンツォ!」


 周囲の声援は圧倒的にロレンツォコールだ。

 彼は去年の優勝者で、地味で目立たない存在のウィリアムが、ここまで勝ち上がって来ていること自体が、すでに信じられない番狂わせらしい。


「アスカ」

 肩を叩かれ振り向くと、エドワードがビストに入る二人の選手を目で追いながら立っていた。その厳しい視線に、飛鳥はぞくりと肌が泡立つ。

「エドも出場していたんだ?」

 一呼吸おいて、ユニフォーム姿の彼を見上げた。掻き上げられた髪はしっとりと濡れ、汗にまみれて熱戦の模様が偲ばれた。

「ウィリアムに負けた」

 エドワードは、じっと視線をビストに固定したまま答えた。



「Allez(始め)!」

 試合開始だ。


「え? 速い! もう決まったの?」

 歓声が上がる。もう試合は中断し、一分間の休憩が入っている。


「ウィリアムがリードだ」

 速すぎてどちらが勝っているのかすら、飛鳥には判らなかった。

 エドワードが横でルールや得点方式を解説してくれるのを聞きながら、固唾を飲んで試合を見守っていた。

 いつ突いたのかすら判らないほど速いのに、舞うように優雅な二人の剣さばきは見ているだけで面白かった。


 再会された試合で、ロレンツォの突きが入る。これで同点。なかなか勝負が付かない。


「ウィリアムの方が速い。決まった!」

 エドワードは、皮肉な笑みを浮かべて、「フォームがご主人様そっくりだ。全く、どこまでも嫌味なやつだよ。あいつは」と、誰に言うでもなく呟いた。


「Rassemblez! Saluez!(気をつけ! 礼!)」


 ビストではもう、二人は敬礼をし互いに握手を交わしている。

 試合終了だ。拍手と歓声が会場一杯に響き渡っている。



 飛鳥は歓声に沸くホールを出て、時間を気にしながら父を急かして歩いていた。

「僕の発表は四時からだけど、そろそろ行って準備しなきゃいけないんだ。父さんはどうする? ここで休憩してから来る? それとも会場で他の生徒の発表をみている?」


 飛鳥は、テントの張られた休憩所に気付き、父を気遣って足を止める。


「そうだな。休んでから行くよ。お前の学校がこんなに広いとは思わなかった。街自体が学園都市なんだな」

 少し疲れた顔で杜月氏は微笑んでいる。

「科学館は目の前のこの建物だから。慌ただしくてごめん、父さん」


 飛鳥は英語の余り得意ではない父の為に、セルフサービスの紅茶を注文して持ってくると、「楽しみにしていて。期待以上のできだから」、と誇らしげに告げてから、その場を後にした。



 杜月氏はほっと小さく息を吐く。息子の背中を頼もし気に見送り、やがて、ゆっくりと湯気の立つ紅茶をカップに注ぎ入れた。







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