春の訪れ8
「失礼します」
二度ノックをしたが返事がないので、ウィリアムはそっとドアを開けて室内に入った。
汚れた室内の後始末をするように言われてきたのに、汚物はすでに片付けられていた。窓が開け放たれている。柔らかな風が運んでくる新緑の香りで室内は爽やかに保たれ、何の問題も見いだせない。ただ一つ、そこにいる彼の存在感の薄さを除いては。
目的の彼、杜月飛鳥は、青ざめ、やつれた顔をしてベッドに横たわり、深く眠り込んでいた。
「トヅキ先輩、」
ウィリアムはそっと飛鳥の額に振れ、いつもヘンリーがしているように、その長い前髪を梳き上げた。
やはり、起きそうにない。
本当は、このまま寝かせておいてあげたいのだけれど……。
「先輩、」
申し訳ない思いに駆られながらも、その肩を強く揺する。
飛鳥は一瞬、眉根をしかめてから薄く目を開けてウィリアムを凝視した後、「ああ、きみか……」と身体を起こし、目を擦る。
「黒髪のヘンリーかと思った。いつも、一瞬混乱するよ」
「ハーブティーを作ってきました。飲めそうですか?」
飛鳥は頷いて、まだ暖かいカップを受け取った。すうっ、と鮮明なペパーミントの香りが鼻孔をくすぐり、靄のかかった頭をすっきりと覚ましてくれるようだ。
「ありがとう。美味しいよ」
ごくごくと一息に飲み切って、飛鳥はウィリアムを見上げて微笑んだ。
「今、何時?」
「そろそろ十時半です」
「応援に行かないと」
だが、ベッドから下り立ち上がろうとした途端に、飛鳥は額を押さえてそのままストンと膝を折って座り込んでいた。
「大丈夫ですか?」
飛鳥を支えようと、ウィリアムは慌てて腕を伸ばす。
「ただの貧血だよ。悪いけど、机の上の白いボトルを取ってくれる?」
飛鳥は、渡されたボトルの中の白い塊を、ひとつ口に入れ噛み砕いた。
「砂糖ですか?」
ウィリアムが不思議そうに見つめている。
「ぶどう糖。食べてみる?」
飛鳥が指で摘まんで手渡したその欠片を口に入れた途端、甘い、とウィリアムは顔をしかめる。
「ヘンリーと反応が一緒だね」
飛鳥は声を立てて笑った。その屈託のない笑顔に、ウィリアムもほっとしたように頬を緩ませた。
飛鳥も一息つくと、今度はゆっくりと息を整えながら立ち上がった。洗面台で顔を洗う。
「シャツ、くしゃくしゃかな?」
ウィリアムを振り返って訊くには訊いたが、返事を期待していた訳ではないらしく、諦めたように嘆息する。
「着替えるよ」
新しいシャツを取り出して、もそもそと着替え始めた飛鳥の背中に、ウィリアムは一瞬息を呑んだ。さり気なく顔を逸らす。気づかれないように極めて紳士的に。その背中に刻まれていた傷痕など、全く目には入らなかったように。
「きみ、ウインザー・ノットって結び方できる?」
「できます」
「ヘンリーが今日はそれにしろって。悪いけれど結んでくれる?」
遠慮がちに視線を戻すと、当の本人は、そんな彼の胸中には全く気づいくことはなかったらしい。ネクタイとの格闘を諦めて、はにかんだ笑みを口許に浮かべてウィリアムを見上げていた。
ネクタイを結んで貰いながら、「僕は紳士にはなれそうもないな」と、飛鳥は苦笑する。
「トヅキ先輩は充分に紳士です。この学校にだって、ウインザー・ノットを結べる生徒は多数いても、紳士といえる方なんて数える程しかいません。……できました」
だがウィリアムは、一歩下がって全体を確認すると、「そのスラックス、お身体に合っていないんじゃないですか?」と、怪訝そうな顔をした。
「うん。サイズが合わないのをヘンリーに直して貰ったやつ。仕立てて貰ったのは皺になっちゃったから」
「アイロンをかけてきます」
ウィリアムは、あっと言う間に着替えたばかりのスラックスを持って部屋を出て、また直に戻ってきた。そして、飛鳥が着替えている間は背を向けて、そつなく、けれど当たり前のように、腕を通しやすいように彼の上着を広げて待っていた。
「きみって話にきくファグみたいだな。でも、今はファグ制度って廃止されているんだろ?」
されるがままに上着を着せてもらいながら、飛鳥は少し驚いたように声を上擦らせて訊ねる。
「表向きは、ですね。寮内での制度はなくなりましたが、使用人を連れて入学される方は今でもいらっしゃいますから」
「きみもそうなの?」
「はい」
「ヘンリーの?」
ウィリアムは困ったように、「秘密にしておいて下さい」と唇に人差し指を立てて微笑んだ。
飛鳥は苦笑して頷くと、次いで差し出されたローブを羽織り、ポケットにぶどう糖のボトルをねじ込んだ。
ふぅ、と深く息を継いで飛鳥は黙想し、ゆっくりと瞼を持ち上げる。ぎゅっと唇を引き締める。それから、にっこりとウィリアムに視線を戻した。
「きみも何か出場するの?」
「フェンシングに」
「何時?」
「十一時半からです」
「じゃ、急がないと。僕はもう大丈夫だから、行って」
「クリケット場までお送りします」
飛鳥は躊躇し言い澱んだが、「そこまでが、きみの務め?」と、思い切って訊ねてみた。
ウィリアムは柔らかく微笑んで頷く。飛鳥は「行こう」、とその腕を掴み、ばたばたと慌ただしく部屋を後にした。




