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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  春の訪れ5

 翌日、ヘンリーは約束通り、いつもより二時間早く部屋に戻ってきた。

 飛鳥はやはりベッドの上に胡坐をかいて座っていたが、今日はその膝上にノートパソコンを載せている。


「ヘンリー、始めるよ。箱に付いているセンサーを見て、ペンを持って」

 部屋の中央にはあの黒い箱が置かれている。箱の端中央に小型のカメラのようなものが付いていた。

「どのくらい見ればいい?」

「数秒でいいんだ。OK」

 指示通りにペンを持ち上げると、丁度胸元辺りに、15インチサイズの半透明のスクリーンが斜めに立ち上がる。ヘンリーは感心してそれを凝視し、吐息を漏らす。


「へぇ、どういう仕組みになっているの?」

「センサーで視線を捉えて距離を測っているんだ。スクリーンに絵を描いてくれる? 兎は描ける?」


「なんとなくは判るけれど、見本がないかな?」

 ちょっと困ったように頭を傾げた彼に、「こんな感じで」と飛鳥は机に置かれた自分のマグカップを指さした。そこに兎の絵が印刷されている。誰もが知る人気絵本のキャラクターだ。


「ああ、なるほど。それみたいに服を着せるかい? どうせなら、ウイスタンの制服がいいかな。カレッジ・スカラーだ」

 ヘンリーは兎の絵に制服を着せ、さらにローブを描き加える。

「うわ! それ、すごく可愛い! ちょっと待って。保存するから」

 飛鳥は嬉々として、手許のパソコン画面上の、仮想スクリーンと同じ兎の画像を眺めながらキーを叩いた。


「ほんとに可愛いけれど、今は駄目だよ。普通の動物らしい兎のサンプルしか入れてないんだ。服なしでお願い。でもこれ、本番までに動画を作るよ。ついでにグッズも作って六月祭のバザーで売ろうよ!」

「こんなものがウケるのかな?」

「ウケるよ絶対! だって僕は、サマースクールで、エリオットの制服を着たテディ・ベアを弟のお土産に買って帰ったもの!」


 飛鳥はそんなものが好きなのか――。


 ヘンリーは唖然としながらも、首を振って笑った。




「それより、どうすればいい? 描き直せばいいの?」

「画面の上の方に画像編集欄があるだろう? それを使って」


 再びヘンリーは仮想スクリーンに向き直り、飛鳥も気を引き締め直してパソコン画面を見つめ、指示を出す。


「黒で塗ってくれる?」

 あっという間に描き上った黒兎を眺めながら、「やっぱり、きみ、上手いね」と、ため息を漏らす。

「これくらい自然だと、」

 飛鳥はキーボードを叩きながら、ヘンリーに視線を向けた。

「こんな風にしても違和感がないんだ」



 ヘンリーの描いた兎が、本物の兎になって画面から飛び出し辺りを跳ねまわる。


「ほら、ヘンリー、捕まえて! 可動範囲は、六フィート四方だよ!」


 驚いて、立ち尽くしたまま兎を目で追っていたヘンリーは、慌てて兎に手を伸ばす。だが、兎は手の間をすり抜けて逃げてしまう。そして少し離れたベッドの上で、首を傾げてつぶらな瞳でヘンリーを見つめている。


 ひとしきり追い回してみたものの、上手く捕まえられない。


「僕の勝ちだね」

 兎に、いや飛鳥に勝利宣言され、ヘンリーはクスクス笑った。

「ああ、まったく敵わない」

「いつも冷静で物事に動じないきみを驚かせるのが、病みつきになりそうだよ」


 飛鳥は誇らしげに笑っている。少し腹立たしいほどに。だが直ぐに、そんな彼を初めて目にすることが出来たことに、嬉しく微笑ましい温かな思いがヘンリーの内側を満たしていた。


「楽しいよ。すごく。これ、どういう仕組みなの? 可動範囲が随分と広がっているし、この兎、僕の動きにちゃんと反応していた」

「兎を動かしているのは、僕なんだ」


 飛鳥はノートパソコンの画面をヘンリーに向けた。ベッドに腰を下ろし、その画面をのぞき込む。飛鳥はキーを叩いて室内を映した画面上の兎を動かしてみせた。


「それから、あれ」と、飛鳥は天井に取り付けたプロジェクターを指さす。

「ここで操作して、あれで投影しているんだ」


 それからふと飛鳥は言おうか言うまいか、ともどかし気な迷いをみせ、ヘンリーにちらと視線を向けた。だが、ふっと目を伏せると、「第一号も見るかい?」と、キーを叩く。



 黒い箱の上に、手足の生えた丸い塊がちょこんといる。長い耳らしきものがついている。その丸いのが、辺りをぴょんぴょん跳ね始める。


「わかった! これはトロールだね!」

 その不可思議な何かに釘付けにされ、必死にその実態を掴もうと目で追っていたヘンリーは、明るい楽しそうな声音で、飛鳥を振り返る。


「兎だよ」


 ヘンリーの笑みは一瞬で固まり、次いで、本格的に笑い出した。


「ある意味、才能だね。製図はあんなに細かく正確に描くのに、生き物はこんなに独創的だなんて!」


 飛鳥は所在なさげにため息をついた。


「本番も手伝おうか?」

 ヘンリーはいつもの柔らかい微笑みで、飛鳥を見つめている。

「そのために、今日呼んだんだろう?」

「構わない?」

 飛鳥は、おずおずと遠慮がちに口を開いた。

「勿論」


 ドン、ドン!

 荒っぽいノックの音に、ヘンリーは立ち上がって扉を開けた。

 顔を上気させたロレンツォが、ヘンリーの耳許に早口で囁いた。


「アスカ、続きはまた後で」

 ヘンリーは振り向きざまそれだけ言うと、そのまま後ろ手に扉を閉め、部屋を後にした。何か言いたげな飛鳥の様子に、気づいてはいたのだけれど……。





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